魔法の世界
井村 君江著
伊達 直之
私事から始めて恐縮だが、私は子供の頃から伝説や昔話、神話が好きで、松谷みよ子氏や木下順二氏を手始めに類書を読みあさり、水木しげる氏の妖怪作品にも、遠野物語や民族誌の出版物にも手を伸ばしていた。その一方でムーミンのシリーズから北欧神話、カレワラ、ゲルマン神話、グリムの伝説集へ興味は節操無く広がり、ご多分にもれずギリシア・ローマの神話を合わせたヨーロッパの神話全体に親しんできた。一九六〇年代から七〇年代に本好きで育った子供たちには、とても多いパターンだと思う。
当時は山室静氏の諸翻訳や、世界神話や伝承文学の体系的な出版も続き、民衆の文化を伝えるワクワクするような物語群が次々と紹介され、私たちの前に新しい世界・異界を開いて見せてくれた。同系統の物語でもバージョンの相違が秘めた意味も紐解かれる。学年が上がってこうした関心が学問や文学的な読書と重なり始めた頃、つまり精神分析学や社会心理学、文化人類学や民族誌、文化研究などとも重なっていった七〇年代から八〇年代にかけて、井村君江氏の名前に頻繁に出会うようになった。アーサー王以外は手薄だったケルトの神々や伝説を、実に豊かに紹介してくれたからだ。W・B・イェイツの名前も、井村氏のケルト幻想物語集によって知った。
日本で妖精が流行したタイミングとも深く関わっていたように思う。直前には、森永製菓の箱入りチョコレートのおまけで、アーサー・ラッカムら英国を代表する挿絵画家らが描いた艶麗な妖精カードも人気だった。コナン・ドイルや、ルイス・キャロルが妖精を信じていたなどの知識の拡散も相乗効果となった。社会では公害病の認知から、環境問題や科学信奉への懸念も高まり、経済の拡大成長神話への疑問や批判など、超自然は時代が模索した精神文化の方向性とも同調した。私は今、W・B・イェイツなどアイルランド文学・文化の研究者となったが、井村氏の名前や活動は、生きてきた時代と切り離せずにある。
本書は「妖精教授」井村君江氏の「最後の授業」と銘打たれている。第一章は大学の講義に模し、主としてヨーロッパの魔法の歴史をのびのびとした口調で語る二十二のコンパクトなレッスンから成る。第二章は、井村氏がかつて生活した英国の中でも魔法に縁の深いコンウォールに関する、本人と息子さんのパーソナルなエッセイだ。
レッスンは古代エジプトの絵文字から「死者の書」、聖書のソロモン王と魔術、石に刻まれたルーン文字の力、ドルイド、アーサー王の物語に登場する魔法使いや精霊について、さらに錬金術師の系譜や、魔道具や図形の種類に籠められた魔力の解説などが続く。図版をふんだんに用い、ヨーロッパ精神の隠された水脈が示される。注釈は最低限。語り口はかみ砕かれてわかりやすい。最後の二十世紀は、来日もした大魔術師アレイスター・クロウリー、ダイアン・フォーチュン、そしてハリー・ポッターで締めくくりだ。途中随所に挟まれる井村氏のコメントは、学問的というよりも、個人の想いとして直接に響いて伝わる。魔法を語ることと、ご本人の人生が、自然体で一体化しているのだと感じる。
前書きの結語、「私の人生は不思議な良い魔法にかかっていた」という言葉は、帯にも引かれている。時代とともに生き、そして後進たちに魔法の在処や、妖精の居場所を指さし教えてきた井村氏の歩みは、ハリー・ポッターとは異なるが、エブリデイ・マジックの実践だ。そうか、「妖精教授」という呼称は、井村教授その人が妖精なのだという意だったのかと、最後に思い当たる。(だて・なおゆき=青山学院大学教授・英文学・文化)
★いむら・きみえ=英文学者・比較文学者・明星大学名誉教授。著書に『妖精学入門』『ケルトの神話』など。訳書にイェイツ著『ケルト妖精物語』、T・マロリー著『アーサー王物語(全5巻)』、シェイクスピア著『夏の夜の夢』『テンペスト』など。一九三二年生。
書籍
書籍名 | 魔法の世界 |