2025/05/02号

短歌って何?と訊いてみた:川野里子対話集

 短歌の達人である著者の、歌人以外の達人一五人との、短歌を巡る対話集。古今東西の様々な事象と照らし合わせ、短歌の歴史と今をあぶり出している。その過程での著者の通奏低音のような危惧は、今の人が作る短歌の主題になっている「私」の軽さだ。  「短歌の場合だと近代を支えたのは『私』のボリューム感です。『私』の実存感というものをいかに表現していくかが非常に大きな重石として働いたと思うんです。だけど今、主題になっているものは『私』の軽さなんですね。そこだけにどんどん行っちゃっていいのと私はすごく不安です」。 そして著者は、短歌の世界から人間の世界自体を憂慮する。  「やはり情感を詠うのが短歌ですから、情感による共感の共同体は底荷としてあるのは強みです。しかし、そうした共同体自体を遥かに超えるもの、客観的で冷静な普遍化がなくては人間の世界自体が矮小なものになってしまいます」。  この、問題とされている軽くなった「私」という人間の個別性を放棄し、必要とされる客観的で冷静な普遍化として死を持ってきているように見える歌人が、『死のやわらかい』という第一歌集を出した鳥さんの瞼だ。その名からは性差がわからないどころか、人間以外の鳥の、しかも瞼という部分。鳥の実体というより、鳥という概念が人間の認識に投影する柔らかさや親しさへの呼称である「鳥さん」の、その開閉する窓としての瞼という視点なのだろう。歌集のプロフィールには生年も生地も記載がなく、「死と水が好きです」とある。タイトルの『死のやわらかい』からも、死を怖がっていず、唯一の究極の救いの母体として憧れ愛しているようだ。死には性差も不公平もない。死は誰にも平等に訪れる。死という現象に個性はない。 遅くまで起きてるみんなの死にたいを結んで名前のつかない星座 直角の傷を背負ったカステラよ死んだあとってこんなにすごい  希死念慮や死後が共通の希望なのだ。この明るい連帯感は、まるで「私」を捨てた魂たちの新たな宗教のようだ。  世界やSNSを見ていると時々、「私」が暴力に見えることがある。そんな「私」なら手放したいという発想はわかる。平成時代に盛んに詠われた生きづらさは、この「私」を手放せない苦しみだったのでは、と思う。  男性社会・父権社会での生きづらさが詠われ、ジェンダーについて詠われた。そうして多様性が極まった先には個人があるはずだが、この個人=「私」が悪であるならば、一体何のために今まで戦ってきたのか、という疲労と絶望しか残らない。その戦いが敗北を迎える未来を予感して、「今の人」たちは「私」の軽量化、または放棄を選んでいるかのようだ。そうして「私」から脱皮したように社会的にも肉体的にもゼロになったら、魂はこんなに軽くて平和だよ、と「今の人」たちは短歌で囁き合っているのかもしれない。  「私」の軽さへの危惧と絡めながら、震災後における定型詩、短歌についても対話が続く。  皆が言葉を失っていた3・11の夜から、一部の俳人と歌人は大量の作品を作っていた。  「制約のない言葉というのがどれだけ無力であるか、どれだけひ弱であるか。守られてないんですよ、散文の言葉は」。 定型というのは、心のための、流されない不動のシェルターなのだろう。その中で人の心は安心して呼吸し、本音を言葉で吐露して他者との繫がりを確保してゆくのだ。  「『今』『ここ』『私』しか信じられないという震災後の世界への不安感、不信感の表明」。  「若い人たちは痛ましいほど自力本願になっているのではないか」。  震災で、人は自然と社会に絶望したのだろう。しかし、生き続けるには自然とも社会とも絶縁はできない。  「景」+「心」というのが基本で場面と思いが両方語れる短歌は、震災後のグリーフケアになり得、不信感で孤立した「私」を自然と時間に再び繫げてくれるのではないだろうか。  短歌は、これまで歴史的に辛くも生き延びたという局面が何度もあったようだが、デジタル時代で誰もが情感を排除されてメンタルを崩しがちな昨今、その情感の住処として不死身であるように見える。(くら・ささら=歌人・絵本文作家)  ★かわの・さとこ=歌人。著書に歌集『王者の道』(若山牧水賞)『硝子の島』(小野市詩歌文学賞)『歓待』(讀賣文学賞)『ウォーターリリー』(前川佐美雄賞)、評論に『幻想の重量 葛原妙子の戦後短歌』(葛原妙子賞)など。一九五九年生。