ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 402
重要なのは映画の細部を感じ取ること
JD フランスに限っても、パリの外には全く異なる生活が広がっています。パリの内部だけ見ても、現在、違った〈階級〉の人々がたくさん暮らしています。そうした人たちの「生」そのものを真剣に考える映画作家は、本当に少なくなった。仮に映画の中で取り上げられることがあったとしても、主人公たちの物語を彩る〈背景〉にしかなっていない。そんな映画作りの根本には――私が思うに――映画作家の世界に対する軽視があるのだと思います。世界を利用するのではなく、根本の根本にまで考えを及ぼす映画作家は本当に稀になってしまった。
HK アルモドバルもそうした小さな映画を作っている一面があるということでしょうか? 個人の問題に関わる映画しか作らなかった監督というと、ベルイマンなどが思い浮かびます。
JD ベルイマンの映画は、主に登場人物の会話劇によって進行していく、彼自身の生き方に関わる非常に個人的なものですが、数少ない大きな作りの映画になっています。単なる心理描写には収まらない。一部の例外を除けば、大部分の映画は心理描写で成り立っています。物語を語る上で――映画に限らず、演劇や小説などにおいても――登場人物の心情の移り変わりを見せることは、作劇法の基礎にあるからです。例えば、ハリウッドの古典的コメディ映画(スクリューボールコメディ)のようなものであれば、反発する男女が、最後には結びつくことが不可欠です。映画は、男女が結びつく過程を見せる。そうした作りは、ラブストーリーに限らず、家族の問題や集団・社会の問題においても同様です。結末は「ハッピーエンド」となる。周知の事実です。物語の行末は最初からある程度、見る人に期待されている。映画は、その結末に至るまでの過程を見せる芸術であるという一面を備えています。
芸術は、科学とは異なり、結果よりも過程の方が重要なのです。映画や小説を、科学のように定義することはできません。なぜなら芸術の本義とは、まさに生まれつつあるものとしての生を取り扱うことだからです。例えば『失われた時を求めて』を、科学者の書いた論文の如く説明しても面白いことはありません。プルーストの表現しようとしたこと、言おうとしたことは、単なる物語の筋に還元できるものではないからです。専門家がするように、登場人物の関係や物語の詳細を記憶しても意味がありません。なぜなら『失われた時を求めて』を読むこと、読んでいる最中にしか理解できないことがあるからです。それは、感じるということ、つまり感性の問題なのです。プルーストの書いた入り組んだ物語と長々しい文章の内部に入りこむこと、つまり読んでいる最中にしかわからないことがあるのです。それは事後的に言葉で説明できるものではないかもしれませんが、読む人の感性を通じて伝わってきます。絵画や演劇、映画に関しても、全くもって同様です。映画は見ることでしかわかりません。さらに言うならば、小説などの芸術よりも、視覚的な影響力が強い。見ることができなければ、理解することは本当に難しい。なぜなら、映画の隅々まで言葉で説明することはできないからです。たったひとつの映像、シークエンスなどを説明しようとしても、全てを伝えることはできません。わずかワンショットであっても、映像内の要素を隅々まで見ることは困難です。映像は動くものですから、絵画や写真のようにして、静止したものを細かく分析することはできないのです。さらに、それらが編集され連なっている場合には、細部を伝えることは不可能です。しかしながら、見る人は、眼を通じて、感性を通じて、そうしたことを感じ取って理解しているのです。
そして本当に重要なのは、映画を見ている最中にそれぞれが感じ取っているものです。映像内のちょっとした細部であるかもしれませんし、もしかするとファスビンダーが描くような人間固有の存在に関わることかもしれません。またはカメラによって作り出される、視覚的に現実離れした画面かもしれません。もしくは、モンタージュによって生み出されるリズムかもしれない。映画においては、あらゆる要素が複雑に絡み合っているのです。 〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)