2025/02/28号 3面

カリブ海序説

カリブ海序説 エドゥアール・グリッサン著 福島 亮  デマゴーグに嬉々として踊らされた匿名集団が、少数者たちを狩り出し、執拗に追い立て、彼らがいた記憶を抹消する。この国の現状のひとつ。国際法を無視し、ガザ住民の虐殺を続けるイスラエルと、それを容認して恥じることのない合衆国や欧州の指導者たち。世界の現状のひとつ。すべてを支配するのは、無力感だ。  あまりにも理不尽な状況のなか、エドゥアール・グリッサンの大著『カリブ海序説』が翻訳された。グリッサンは、カリブ海のマルティニックで一九二八年に生まれ、二〇一一年にパリで亡くなった。本書は文字通り、カリブ海の思想家によるカリブ海を主題とする書物である。だが、随所に滲む著者の怒りは、この国と世界を取り巻く状況を先取りしているように思えてならない。  本書の大部分が執筆されたのは、カリブ海の旧フランス植民地において独立闘争が激化し、しかしその望みが徐々に絶たれ、「成功した植民地支配」――本国資本に依存した消費経済の浸透――がこの地で支配的となる一九六〇年代から七〇年代である。だが、書かれた年代とその書物の射程は等号では結べない。実際、グリッサンが対峙しているのは、「世界の至るところで、殺戮や臆することなきジェノサイドや恐怖の攻撃が、諸々の民の尊い抵抗を精算しようとしている今」であり、「透明さによる標準化と無力化」が支配する状況であるのだが、私たちもまた、それと地続きの状況を生きている。  遠い場所、遠い時代の書物でありながら、本書が示す状況と、現在を生きる私たちの状況は関係している。ここに書かれているのは、切り離された過去ではなく、私たちもまたそこに巻き込まれている現在、あるいは未来なのである。  本書は一九八一年に刊行された原著の全訳である。原著には英訳、独訳、西訳が存在するが、うち英訳と独訳は抄訳であり、しかも行き届いた訳註と詳細な解説が付された全訳は、私の知る限り本書以外に存在しない。  この全訳は、一朝一夕になされたものではない。日本においてグリッサンの思想が本格的に紹介されるようになったのは、一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけてである。その際、「紹介」や「研究」の域にとどまらず、このマルティニックの思想家と「詩学」の次元で強く共鳴する人々がいたことは、全訳の背景を理解するうえで重要だろう。たとえば今福龍太や管啓次郎の仕事は、グリッサンを日本語で読むための言葉と感性を準備した(訳者のひとりである中村隆之の仕事はこの延長線上にある)。彼らに共通するのは、本書を原著で、あるいは英訳で同時代的に読み込んでいたという事実だ。「詩学」の次元での共鳴とは、大国からではなく、複数の小さな場所から思考する、というラディカルな思想の構えであるのだが、その原動力、ないしは初発の一撃とでもいうべき一冊が『カリブ海序説』だったのである。  小さな場所――長短さまざまな九六編の文章に註と地図を加えて七六〇頁を超える本書には、事実、マルティニックというたったひとつの主題しかない。どの頁を開いても、そこにはこの土地の名が、この土地の言葉が、そしてこの土地を取り巻く状況が語られている。だが、小ささへの透徹した眼差しから浮かび上がってくるのは、この土地を取り巻く広大な脈絡——歴史全幅——である。  一例をあげよう。マルティニックで器や水入れとして用いられる「クイ」という道具がある。瓢箪を用いたこの道具は、日用品の代名詞ともいうべきささやかな道具であるが、著者は器と人との極小の関係性のうちに、カリブ海とアフリカとを隔てる広大な闇を見てとる。カリブ海で用いられているそれは種類が乏しく、「まるでクイが意図的に『忘却され』、文字通りの日用品の機能に『還元され』てしまったかのよう」であるのに対し、アフリカにおける瓢箪の形態は「このうえない多様性(活力)」をたたえている。この違いの背景にグリッサンは、奴隷制によって棄損された人と道具との関係を読み取る。本来であればありえたはずの人と道具とのあいだの手仕事を介した有機的な関係は、奴隷制のもとで、最低限の「機能」に切り詰められてしまったのである。  花の香り、釣り針、錯乱した言語で書かれた紙片……雑多ともいえる小さなものへの熱い眼差し、それはまた、痕跡への眼差しであり、失われたものへの眼差しでもある。僅かな徴を残して姿を消してしまった者/物たち、西洋を中心とする大文字の歴史や系譜に回収されることのない「非―歴史」の数々、それらを掘り起こし、「単線的で階層化された〈歴史〉」ではなく、諸々の関係性から浮上する「歴史」と「共同体」の未来を指し示すこと。これが本書に一貫するグリッサンの姿勢であり、そのとき喪失したものたちへの眼差しは、ユートピア的な未来の希求へと直結する。  「それは(…)時間の苦痛に満ちた感覚を解きほぐし、それを一気に私たちの未来に投影することだ。それは、私が過去の預言的ヴィジョンと呼ぶものである」  この詩的ヴィジョンのうちに、グリッサンのあらゆる書物の水脈は流れ込んでいる。すでに彼の著作は共著も含めて十冊以上翻訳されている。本書を起点にあらためてそれらの著作を読み返す時が来たようである。あるいは、浩瀚で近寄りがたいかもしれないが、本書を入り口にして、これからグリッサンを読み始めることもできるだろう。  すべてを支配する無力感のなかで、世界の叫びが聞こえてくる。民の殺戮、記憶の抹消、あるいはすべてを支えるこの惑星の環境破壊といった、ありとあらゆる災厄から湧き上がる叫び。本書は、その叫びを言葉に変えるための書物である。グリッサンは言う――「複雑かつ困難で予測できない〈関係〉が、来るべき諸詩学の主戦場だ。世界の叫びが言葉となる」。(星埜守之・塚本昌則・中村隆之訳)(ふくしま・りょう=日本大学講師・フランス語圏文学)  ★エドゥアール・グリッサン=西インド諸島マルチニックの思想家・文学者。著書に『〈関係〉の詩学』『全―世界論』『レザルド川』など。

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