崇高と資本主義
星野 太著
松葉 類
本書は、リオタールの「崇高」概念の両義性を指摘しながら、それがいかにして「資本主義」を批判する役割を担うかについて論じている。同時に本書は、著者がこれまで十五年あまりにわたって練りあげたリオタール解釈の総括であり、彼の多領域にわたる仕事の出発点となる視野について知りたい読者にとって、待望の一冊である。
展開される主張は明快である。著者によればリオタールは、一九六〇年代まで深くかかわっていた政治運動から身を引いて美学へと「回心」したかにみえて、まさに美学という仕方で政治を実践していた。このいわば美学的な抵抗運動の焦点となるのが「崇高」概念である。
よく知られるように、リオタールは芸術の可能性を論じる際に「崇高」の語を用いている。彼はカントの美学において、感性によってとらえられない理性理念の表出を指すこの語に着目し、芸術や文学における「呈示不可能なもの」を「崇高」と呼ぶ。ここで著者はカントからの影響だけでなく、エドマンド・バークからの影響へも注意を向けるべきだと主張する。バークの美学において、「崇高」とは「行動と推論能力」を奪う不安に由来する「恐怖」を指す。さらに、そこから解放される安堵からくる「悦び」をも考え併せると、バークの「崇高」には出来事がもたらす瞬間の衝撃という、時間的な性質が付与されていることになる。リオタールはこの出来事の「呈示そのもの」にも「崇高」をみようとする。それは「構想力の、時間の、そしてわれわれの内なる諸能力による支配の宙づり」としての「衝撃の美学」(一二八頁)である。
他方、リオタールは批判対象となる「資本主義」もまた「崇高」と形容する。ここでいう資本主義とは、終わりのない発展と拡大によって自己を支える社会・経済システムである。それは非価値を標榜するものさえも価値づけしてしまうような包括性を有し、外部の批判や雑音をみずからに取り込むかたちで、あるいはその痕跡さえも完全に排除するかたちで無効化してしまう。リオタールは、資本主義が外部にある他の諸規則から独立しつつ、規則そのものを生みだすことを指して「崇高」と呼ぶのである。すでにみた芸術や文学の「崇高」もまた、この資本主義のなかで否応なく価値づけされるが、そのことによってみずからを流通させもする。芸術や文学と資本主義のあいだには、「崇高」をめぐるこうした共犯関係が存する。
しかし著者によれば、リオタールはこの両義性を利用して、資本主義の内在的な批判を行おうとした。資本主義の「崇高」からくる価値づけに内部から抵抗し、それを瓦解させうるのは、芸術や文学がもたらしうる「崇高」である。リオタールは一九八五年、ポンピドゥー・センターでの美術展の企画に携わっているが、これもひとつの政治的実践であるとみることができよう。
本書がたどりつく、芸術や文学が資本主義のもたらす価値体系に対する、ある種の突破口となりうるというリオタールの主張は、一見ナイーブなものでもある。空間的に呈示不可能なものに依拠する(カント由来の)崇高論が「一種の否定神学」(一〇二頁)であるとすれば、時間的に呈示されるものに依拠する(バーク由来の)崇高論は、現前の形而上学または端的に「神学」それ自体として機能してしまうのではないか。本書の読者は、残されたこの疑問と向き合うことになるだろう。しかしおそらく重要なのは、本書が論じるように、「崇高」とは、それがなぜ崇高なのかを客観的な仕方で説明することのできないものであるということだ。非物質的な質料、非継起的な時間に存する「崇高」は、それゆえにこそいかなるノスタルジーにも堕することなく、その場かぎりの未来へむかう抵抗の足がかりともなりうるのである。(まつば・るい=上越教育大学助教・政治哲学・法哲学・宗教学)
★ほしの・ふとし=東京大学大学院准教授・美学・表象文化論。著書に『崇高の修辞学』『美学のプラクティス』『崇高のリミナリティ』『食客論』、主な訳書にジャン=フランソワ・リオタール『崇高の分析論』など。一九八三年生。
書籍
書籍名 | 崇高と資本主義 |
ISBN13 | 9784791776948 |
ISBN10 | 4791776941 |