シェリング政治哲学研究序説
中村 徳仁著
茂 牧人
本書は、中村徳仁氏が、二〇二二年度に京都大学大学院人間・環境学研究科に提出した博士論文に加筆・修正したものである。著者は、シェリング研究における新進気鋭の研究者で、今後日本におけるその分野の研究をリードしていくことを嘱望されている。本書は、シェリングの初期から晩年までを「反政治」という軸で見渡すもので、ドイツや日本での研究書を数多く狩猟し、読解している大変目配りのきいた研究書である。
本書のタイトルをみて、まずは「反政治」という術語の意味について疑問に思われた方も多いと思う。もともと「シェリングは、政治思想家ではない」という先入見が、一般的である。しかし他方では、「シェリングは、政治思想の歴史に新境地を拓いた」という評価もあった。著者は、シェリングが、彼なりの仕方で政治に関わっていることを本書で示そうとしている。著者はそれを、決して「非政治」ではなく、「反政治」と呼ぶ。反政治は、「個人の自由の保証といった主要な課題へ国家を制限する」ことであると結論づけられる。
さらに本書は、シェリングを「はざま」の哲学者として位置づける。シェリングはテュービンゲン神学院時代に、フランス革命の熱気と神学院の教授たちの伝統主義とのはざまにあり、その正統主義から神の言説や鋭意を奪還しようとした。また批判主義と独断主義とのはざまにあって、両者いずれにも与せず、両者の間に開かれた領域を確保しようとする。またその領域に国家の存在の必要悪を認め、「思考の自由」の行使によって国家の神権政治化をけん制し、未来への「道」を探究することで、人格の完成へと向かおうとしていると主張する。
実際著者は、その「はざま」にあることを、哲学の思索内容としても展開する。シェリングは、常に啓蒙主義的オプティミズムを継承しつつも、そこから逸脱する要素を展開する。彼はいつも理性や信仰の「完成性(完全性)」を追求しつつも、その完成性には回収されない謎や暗闇という「個体性(個性)」に目を向ける哲学者であった。著者は、それを「ラディカルに開かれた同一性」とも呼ぶ。つまり対立する両者の間に交渉が成立するための、余地としての根底があるという。シェリングは、歴史を考えるときに、統一的な学問原理による人類の完成と救済をみているが、他方では、「歴史哲学は不可能である」とも主張する。また前期のエッシェンマイヤーが、「非哲学」「信仰」の立場で、「哲学」の放棄を主張するのに対して、シェリングは、哲学を擁護するのであるが、しかし体系性を否定して、「非体系的な」「可謬な体系」を模索する。体系には必ず「決して割り切れない残余」が残るからである。
そのはざまの思索は、国家論でも展開される。後期にかけてシェリングは、保守化しているといわれることもあるが、著者は、シェリングの思想に「連続性」をみて、シェリングは、国家は、悪や病と同じく必要悪であり、国家権力は、最小化すべきであると述べていたという。国家には必ず逆説がある。普遍的な理性による統治こそが、結果的に一部の人間による支配に過ぎないことが暴露されるという逆説である。それ故彼は国家を超えて、哲学的宗教を構築すべきであると主張したのである。
その哲学的宗教とは、例外性を主権の運命へと従属させる目的論を批判して、例外性をそのまま受け入れる終末論を中心にすえるものである。またその終末論は、ケノーシス(自己犠牲)をその内容としていて、「道」であると述べられる。この哲学的宗教は、たんなる理性宗教とは異なる宗教であって、哲学と啓示のいずれの犠牲をも払わない立場である。著者は、シェリングが、第一のカトリック、第二のプロテスタントに続く、第三の時代である哲学的宗教の時代が到来することを期待していると結論づける。
本書は、シェリング哲学の初期から後期にかけてを、「反政治」という軸で見渡すことができる、よく練られた良書である。今後の著者の活躍が期待される。(しげる・まきと=青山学院大学教授・哲学)
★なかむら・のりひと=三重大学人文学部助教・近現代ドイツ哲学。共訳書にマルクス・ガブリエル『超越的存在論』など。一九九五年生。
書籍
書籍名 | シェリング政治哲学研究序説 |
ISBN13 | 9784409031377 |
ISBN10 | 4409031376 |