2025/05/02号

シリーズ昭和100年 成田龍一・吉見俊哉 対談<歴史認識のこれまで、これから>昭和一〇〇年、戦後八〇年を問う

 成田 今年二〇二五年は「戦後八〇年」「昭和一〇〇年」ということが言われています。その認識の当否をふくめ、吉見さんと対談の機会を得て大変嬉しく思っています。  まず戦後八〇年ですが、アメリカで日本歴史を講じるキャロル・グラックさんは、他国と比較したとき、日本の「長すぎる戦後」ということを指摘しています。確かに日本の戦後というのは異様に長い。ただ、さすがに戦後八〇年は、今のところあまり盛り上がっていないのではないように思うのですが、吉見さんはどうでしょうか。  吉見 戦後八〇年と昭和一〇〇年が一致しているのは偶然ですが、まずは戦後八〇年を考えたいと思います。さすがに八〇年も経ると戦後という意識からはもう離れていると多くの人が感じているのではないでしょうか。二〇〇〇年代を過ぎて、私たちは戦後の意識とは違うパラダイムに移行している。戦後という感覚がもはや遠いという現在の中にわれわれはいるのです。  私は、一九九五年が大きな転換点だったと考えています。「戦後」は、実質的に九〇年代半ばで終わった。そういう意味では、九五年を境にすると、戦後の終わりからすでに三〇年も経っているわけですね。一方で、一九四五年から九五年までの五〇年間と、他方で、九五年前後からのポスト「戦後」の三〇年というのは等距離とは言わないまでも、かなり近い時間幅です。  成田 今、吉見さんはパラダイムと言われましたが、私は同時にアイデンティティとして機能していた面があると思います。「戦後」をアイデンティティとして持っていた人たちがいた、ということです。しかしここ二〇年、三〇年の間に、戦後をアイデンティティとしない人たちが出てきた。ですから戦後八〇年という掛け声はあるけれども、多くの人にはリアリティをもって届かない。  吉見 なぜ、戦後八〇年がもうリアリティを持てないのか。今、成田さんがおっしゃったように、アイデンティティ、つまり集団意識レベルの問題と、私はパラダイムという言葉を使いましたが、時代の歴史的な位相というか、そういうシステムレベルの問題がどう連動するのかが問題ですね。少なくともアイデンティティについて言えば、それぞれの時代にあるアイデンティティを担う世代がいて、その世代が後退していくことと時代意識の変化は関係していると思います。  ただ、アイデンティティの変化とパラダイムの変化は、大概少しだけ時間がずれるんです。アイデンティティの変化は、パラダイムの変化の数十年後から起こってくる現象です。パラダイムの変化がいつ起こったのかというと、私は九〇年代の半ばだと思います。象徴的なのは九五年という年です。阪神淡路大震災、オウム真理教事件、バブルの崩壊、長期的な日本経済衰退の始まりが九〇年代半ばに起こっていました。人口も経済も戦後の右肩上がりの成長を遂げてきた日本が、ここで社会としては転換を迎え、右肩下がりになっていく過程が始まっていたのだと思います。  成田 日本の戦後意識の在りようをたどってみると、たしかに一九九五年は大きな節目で、「戦後五〇周年の終戦記念日にあたって」という村山富市首相の首相談話が出されました。それまでは官房長官による談話でしたが、このときから首相談話が出されるようになり、戦後六〇年は小泉純一郎、戦後七〇年は安倍晋三による談話が出ます。敗戦から半世紀たち、あとで議論するように国際関係の変化を経て、日本の立ち位置を示そうとの姿勢があった。しかし、八〇年の今年はといったとき、もう談話は出ないだろうという予測ですね。つまり政治を主導する人々にとっても、戦後がもはや共通認識としがたくなっている。戦後が、記憶とされる段階から、歴史に入り込んできているのでしょう。もちろん、このことは戦後の課題が決着したということではまったくありません。むしろその逆が、実のところですが。  吉見 村山談話はエポックでしたが、村山談話以降の首相談話は官僚的にルーティンを踏襲しているのだと思います。昨今の昭和一〇〇年も同じで、日本社会のシステムの相当部分が前例踏襲の仕組みで動いている。ですから、今の話について言えば、村山談話が九五年に出たということは意味があるのですが、その後の小泉談話とか安倍談話が同じように出ていくということ自体に深い意味はない。日本の官僚システムは、オリンピックでも万博でも談話でも、一度やったことは定期的に繰り返す仕組みになっている。自治体でも同じです。これは古代以来かもしれませんが、前例踏襲で同じことを繰り返していくのはこの社会の非常に強い特徴です。しかも政府だけが前例踏襲なのではなく、国もメディアも世論も社会全体が談合をしているようなところがある。  成田 首相談話が前例踏襲として継続された点については、システムとともに冷戦体制崩壊が見逃せないでしょう。その意味においても、吉見さんが言われる九五年の切れ目は私もまったく賛成です。首相談話のはじまりの一〇年前、戦後四〇年(昭和六〇年/一九八五年)は冷戦体制のただ中でしたが、ときの首相・中曽根康弘が戦後初めて靖国神社に公式参拝しています。おりしも、ドイツではヴァイツゼッカー大統領の演説「荒れ野の四〇年」によって、戦時の反省的な言辞がなされる中での復古的なふるまいです。  戦後四〇年では、まだ戦時の死者たちとの関係をめぐって、生々しい政治が展開されていたことが見えてきます。それが戦後五〇年には、アジアを視野に入れ、歴史に踏み込む問題として村山談話が出された。そういう意味での切れ目だと思いますね。  吉見 まったくその通りで、しかも村山総理がなぜそれを出せたのかというと、それは政治的な意味で五五年体制が崩壊し、党体制が転換したからであって、九〇年代半ばという時代はオウム真理教事件や阪神淡路大震災のような大きなカタストロフだけではなくて、構造的なカタストロフもあって、戦後続いてきた日本の経済の仕組みが崩壊過程に入っていく。そうした一連の大きな転換点の中で、村山談話はそれまでの歴史に対するある批評のかたちとして出てきた。  成田 今回の吉見さんとの対話の入り口になったのは、記念年が持つ意味合いだったのですが、そのことをもう少し考えてみるために「明治百年」のときの議論を思い起こしてみたいと思います。  一九六八年(昭和四三年)に、ときの佐藤榮作内閣が「明治百年記念式典」を挙行したのですが、政府が推し進める「明治百年」に対して、歴史学会が総力を挙げて反対する動きがありました。いくつも声明が出て、式典への反対署名がなされ、多くの歴史学会誌も「明治百年」批判の特集を組みます。ことあるごとに「明治百年」を問題化したのですが、この時期の歴史学にはこんな力があったのか、とあらためて感じ入ります。その一つとして、「明治百年」批判を特集した『歴史學研究』は、タイトルを「天皇制イデオロギー」とし、「日本人民にたいする露骨な反動攻勢の重要な一環としての政治的役割を担うもの」と意気軒高です。注目すべきは、色川大吉、芳賀登、安丸良夫、鹿野政直さんら「民衆史研究」の人たちが、有泉貞夫、中村政則、松本四郎さんといった「戦後歴史学」の本体の研究者とともに登場していることです。  それだけ「明治百年」問題が大きな問題であったと同時に、ここから歴史学の議論がグーッと深まっていく転機ともなり、歴史学における新たな方法や認識が提起され、深められていくきっかけになりました。マルクス主義がまだ元気があったとともに、それだけでは「明治百年」に向き合えないとして、民衆からの視点や方法が提起され、政府による歴史に対抗する動きがうかがえます。高度経済成長という時代における意識として、政府の側が日本の近代化の大成功を言うのに対して、歴史学界が民衆の立場からするとき、日本の近代化が貧困と戦争の百年であり、決して成功ではないと対抗しています。まだ「大きな物語」が健在であり、「成功した近代」という物語を描く政府に対し、歴史学研究が総力を挙げて対抗していったということです。このことは別言すれば、「歴史」がまだアイデンティティであり、「歴史」を対象として、互いが議論を戦わすという時代であったということになります。  吉見 「明治百年」について言うと、僕は最近東京の街歩きをかなりしていて、いろいろなところを歩きまわっているのですが、四谷は街歩きにはとてもいい場所なんです。非常に深い谷があって、迷路がたくさんある。四谷三丁目駅で降りて、その裏側の愛住町を通って迷路みたいなところをずっと辿っていくと全勝寺というお寺があります。その境内に大きな石碑が建っている。その石碑は明和事件で殺された山縣大弐の記念碑です。山縣が一七五九年に書いた『柳子新論』は、幕末の吉田松陰などにも大きな思想的影響を与えた尊王倒幕論です。かなり多才な人だったようですが、弟子が関係したある藩のごたごたに巻き込まれ、謀反の容疑をかけられて殺されます。その山縣大弐の墓が四谷の全勝寺にある。  記念碑には、「山縣大弐の没後二百年を記念して明治百年の年 大弐の命日にこれを建つ 日本人民有志」と書いてある。その有志が実際には誰かというと、『思想の科学』グループの市井三郎さん、鶴見俊輔さん、竹内好さんですね。これは何重かの意味で面白い。つまり歴史の解釈を争っているわけです。山縣大弐は革命家で処刑された敗者なわけです。その殺された革命家たちの敗者の眼差しを、「明治百年」の勝者の眼差しに対峙させて、それを石碑というメディアによって表現しているところが僕は面白いと思ったのです。しかも四谷怪談の「於岩稲荷」のある神社や寺もその近くにあって、そういう鶴屋南北的な世界の横に山縣大弐の記念碑があるのも素敵だなと思ったのですけども、都市論的に言えばそういう広がりと、戦後歴史学から民衆史が立ち上がる流れが、時間と空間は違うけれども、少し交叉しているような感じがしました。  成田 とても興味深い指摘です。時間の幅で「明治百年」に向き合おうとする歴史家たちに対して、鶴見さんたちは空間を対峙することによって「明治百年」に対抗する記憶を蘇らせようとしたのですね。山縣大弐は江戸中期の儒学者ですが、内発的な近代を探り、明治維新の薩長側、明治政府側の近代化に対抗するような思想の先駆者として、とくに市井三郎さんは山縣大弐を再評価していました。  吉見 私が学生たちを連れて行く四谷街歩きコースの出発点は、全勝寺の山縣大弐の小さな墓です。そこから出発して、終着点は紀尾井町の清水谷公園の大久保利通の巨大な石碑にしているのですね。全ての権力を手中に収めた勝者が殺された後にこうなる。敗者と勝者の対照です。  成田 思い起こせば、清水谷公園は「ベ平連」のデモの出発地点でしたから、そのコース、さらに山縣大弐―大久保利通の碑の大小の対比も象徴的で、吉見さんの空間的な実践はさすがです。加えて、そもそも「明治百年」ということを言い出したのは竹内好でした。竹内好が「明治百年」を軸に、高度経済成長下の日本の再考を促すのだけれど、その提起を第二次佐藤内閣(佐藤榮作、第六一~六三代首相)が簒奪したのが「明治百年祭」のキャンペーンです。「長州」(山口県)出身の佐藤は、自分たちの祖先の手柄として「明治百年」を称えようとしたものだから、鶴見さんたちは批判意識を明確に持つし、その問題提起を歴史学者たちも共有しました。日本の近代(正確には近代化)の過程をどのように把握するか、歴史を巡る争いなんですね。  さきほど戦後の始まりについて議論しましたが、「明治百年」といったときのはじまりは一八六八年(明治元年)とされています。江戸幕府が、あらたな政府にとって代わられた年ですが、しかしそこが明治維新の出発点か、ということも重要な論点となります。山縣大弐という幕藩体制に抵抗した人物の処刑、あるいは幕末の百姓一揆や打ちこわし、また天理教などの新しい民衆的な宗教などが、日本近代の出発点を作っていったのではないかという歴史認識との対抗となります。  吉見 始まりのときと終わりのときは複合しているわけですね。戦後もそうだし、明治もそうで、つまり複数の始まりのときがあるのですが、どこかがヘゲモニーを取って、その複数性、矛盾や葛藤を一元化して、物語を単一化していこうという力が働く。しかし、本当はそうではなくて、始まりのときというのは常に複数性を持っているのです。その複数性、あるいはその複数性の相互のズレにこそ本当は意味があるのであって、「明治百年」であろうが、「昭和一〇〇年」であろうが、出発点を単一化することは、非常に問題含みなんだということが言えると思います。  成田 複数の出発点の設定、そこから導き出される近代日本像の相互の矛盾や対抗、ズレを含みながら、近代日本の歴史過程を解釈し、再度、歴史像として紡ぎあげる営みによって現在の問題が見えてくると思います。「明治百年」/一九六八年を参照軸とするとき、戦後八〇年/二〇二五年という把握の相似が見えてくるということになります。当然にも、差異性もあきらかで、二〇二五年の歴史的位相が浮上してきます。  吉見 記念年が持つ意味という問いに答えるとすれば、われわれは記念年というものの、ある種イデオロギー的作用を考えるべきであって、つまりこれは「明治百年」も「昭和一〇〇年」も基本は同じで、そうすることによって始まりの時点についての物語を単一化し、そこから現在に至るまでの歴史を直線的に解釈可能なものとして語り直してしまう。そのイデオロギー作用が記念年のレトリカルな作用として伏在していると私は思うし、それが問題なのです。  成田 はい。記念年のもつ作為性は充分に意識しなければならないと思います。そのうえで考えておきたいのは、第一に「明治百年」の場合になぜ歴史家はこれだけいきり立ったかということです。歴史家たちは、記念年のもつイデオロギー性を「明治百年」を成功物語として描いたことに求めました。すなわち近代日本の歴史過程は戦争の歴史であったということ――日清・日露戦争から始まり、第一次大戦に参加し、アジア・太平洋戦争に行きつくという歴史。しかし、そのような過程を覆い隠し、成功物語として言祝ぐ政府の歴史認識への対抗です。第二点として、民衆史研究の人たちが「明治百年」に反対して出てきたのは、その文脈を示していると思います。鶴見さんたちも、「明治百年」として日本の近代を価値化するのとは異なる、別の近代化の動きがあったはずだ、と考えていたでしょう。記念年へのキャンペーンへの向き合い方を軸に、歴史認識やその方法が深められていったのですね。  吉見 同じ問題が昭和一〇〇年についても言えますね。つまり昭和一〇〇年と言うときに、まず誰でもわかる一番大きな問題は、最初の二〇年をどうするんですかということです。明治の場合には、そこは日清日露を成功物語として語り、戦中期をすっ飛ばすみたいなことになったかもしれないけれども、さすがに昭和一〇〇年では、昭和の最初の二〇年はどうだったんですかという問いが必ず出てくるし、そこはすっ飛ばせないわけです。しかも、それは決して成功の物語としては語り得ない。ものすごく暴力と侵略が前面化した時代、そして悲惨な敗戦。加害と失敗に塗れた二〇年であったわけで、そこを抜きにして昭和一〇〇年なんて言えるはずがない。  成田 ここでも論点が二つあります。一つは一九六八年に政府の「明治百年」物語に対し、虚妄と歴史家が言ったときに、「戦後二〇年」のリアリティを対置しました。しかし現在は、昭和一〇〇年が戦後八〇年とセットにされており、双方とも虚妄と自覚されています。一九六八年の時点で歴史は重要な拠点でしたが、〈いま〉は、歴史は対抗的な拠点とはなり得ていないということが一点目です。  しかしそのうえで、二点目として昭和一〇〇年といったとき、最初の二〇年の欠落はとても重要な論点となるということです。一九二〇~三〇年代は、日本を含む世界史の岐路であったということで、この時期の歴史認識こそが〈いま〉を考えるうえで重要な橋頭堡となります。  近代日本の出発のスローガンとして、「富国強兵」が言われましたが、一九二〇年代において日本は目標を達成したという意識を持つに至ります。第一次大戦の戦勝国に入り込み、国際連盟の理事国の一つとなるとともに、経済的にも文化的にも大きな「成長」をみせ、社会の改変も進行していきます。そうした中、今後どのように日本を設計していくのか――より正確に言えば「大日本帝国」の岐路が検討されます。  いくつかの選択肢があったと思います。一つは今までのような「近代化」の路線の追求です。それに対し、二〇年代後半には左右の方向からのあらたな路線が、社会運動のかたちをとって提起されます。左側からは、マルクス主義的な傾向を持つ計画経済的な方向をとる路線、右側からは、ナショナリズムに根ざし土着的な方向からの改革路線です。どこまで現実的であったかは措いて、少なくとも三択の構想が出されていました。この対抗は、国際関係の中では、三〇年代に世界恐慌への対応の三つの類型となって現前していきます。第一の類型はアメリカが、第二の計画経済型はソ連が、そして第三の類型はファシズム型としてドイツ、イタリアによって実践されます。日本はその中で第三類型を選択していきました。吉見さんが言われた最初の二〇年は、世界史の転換の中での模索、選択、議論の時期にあたります。この時期を抜きにして、昭和一〇〇年ということは軽々に言えないでしょう。余分なことですが、現在のトランプ関税問題も、要するにブロック経済化という一九三〇年代の議論と二重写しに見えてきます。  吉見 結果論的に言えば、そうした時代の分水嶺において日本は二回ともしくじっているわけです。最初のしくじりはまさに一九二〇~三〇年代で、今、成田さんが言われた三つの方向が出てきていて、しかし三つは重なりもあって選択は難しい。つまり、近代化の極点まで行ったのが一九二〇~三〇年代でした。これは日本だけではなく、ヨーロッパまで入れて考えれば、近代化が帝国主義と表裏をなして極点に向かったのは第一次世界大戦で、そこでヨーロッパはとてつもない悲惨さを経験した。帝国主義、植民地主義と近代産業社会が極限まで行けば何が起こるかということを、第一次世界大戦はものの見事に示した。その先でどうするかが世界の問いであったわけです。でも、その問いにどこの国も答えられなくて、第二次世界大戦へと突入したわけでしたから、そのときにしくじったのは日本だけではないかもしれません。ただ、日本は概して世界の非常に難しい状況に対する認識が、社会全体のレベルで鈍感で、その鈍感さが、日本が一九四〇年代半ばにもっとも悲惨な状況に陥っていったことの一つの背景でもあったと思うのです。  そして二回目のしくじりは、一九八〇~九〇年代にかけてで、戦後の高度経済成長の中で七〇年代には日本は豊かな社会を実現した。もうそれ以上、経済最優先で成長を続ける必要は必ずしもなかったのに、新自由主義を突っ走ったがゆえに、日本はそれまで築き上げた豊かさをもっといいかたちで発展させていくことができなかったと思います。そこから今に至るわけです。  ですから、日本社会は昭和の初めにおいても、昭和の終わりにおいても、あったかもしれない可能性を潰しているわけです。その両方に言えるのは、ある種の視野の狭さです。長い時間的スパンと広い視野で、世界の大きな歴史の中で、今、自分たちがどこにいるのかを、冷静に見る眼差しが、この国はすごく弱いと思うのですね。  成田 歴史家のように、展開してくださいました。挙げられた「しくじり」は、吉見さんが強調する九五年の切れ目――つまり九五年以降、現在までの三〇年をどのように見るかということと重なっているでしょう。吉見さんは『ポスト戦後社会』『平成時代』(岩波新書)の二冊で同時代史を叙述しますが、例えば與那覇潤さんの『平成史』(文藝春秋)も構えを同じくします。九五年における切れ目をはさみこみながら、一九八九年以降の歴史を、それ以前とは異なるものとして描きだす営みです。おりから「平成」と重なる時代が、それ以前と異なるというのは、『ポスト戦後社会』の議論で言えば、「日本」や「国民」が「問い」の「前提」ではなく、「対象」となったということです。與那覇さんの言葉で言えば「歴史なき時代」ということになりますが、八〇~九〇年代にかけての国民国家・日本の溶解を見て取っています。グローバリゼーションに伴う変容ですが、今日の話題で言うと、歴史認識/意識がこれまでとはまるで変わり、歴史がアイデンティティにならない。九五年以降は、歴史という共通の磁場がもはや持てなくなってきた、ということの指摘です。したがって、かつてのように歴史家が昭和一〇〇年、戦後八〇年に異議を申し立てることはありません。そうした状況のもと、歴史叙述がいかに可能であるか、いやそもそも、その営みは可能かということすら問われてきています。  成田 いささか、自虐的な議論となりました(笑)。今までの歴史の概念が大きく変わってきているのが、二〇二五年の現在であるということになります。この事態を歴史学的に言うと、冷戦体制崩壊と崩壊後の変化が、二〇二〇年ないし二〇二五年にはっきり見えてきているということにほかなりません。  ですから、かつてのように歴史が共通の基盤にならず、それを語る「私」の存在も、誰に向かって語っているのかという論点も、かつてのように明快には語れなくなっているのが現状でしょう。  吉見 先ほど成田さんはアイデンティティが崩れてきているとおっしゃいましたが、それをあえて狭めてナショナル・アイデンティティを語る語り口として考えれば、それが九〇年代の半ば過ぎから基盤ごと崩れていったのだと私も思います。  この崩壊は一体何だったのか。根本的な要因は、私はメディアだと思っています。つまり、歴史を語るメディアがパラダイムチェンジした。かつて歴史を語るメディアとして教科書もあったでしょうけれども、より大きなものはマスメディアでした。要するに、新聞とテレビですね。新聞の特集紙面やテレビの大河ドラマ、朝ドラ、ニュース、ドキュメンタリーはナショナル・アイデンティティの基盤でもあった。ところが二〇〇〇年代以降、その基盤が弱体化し、崩れていった。そしてやがて、それらに取って代わったのは、言うまでもなくネットメディアでした。  歴史についての語り方は、おそらくマスメディアとネットメディアで決定的に違っていて、ネットメディアでは誰もが発信者になれる、誰もが歴史を語れてしまう。良くも悪くもです。そうすると主軸がなくなっていって、限りなく遠心的な方向に向かうわけです。リビジョニスト的(歴史修正主義的)なものもあれば、フェイクもあり、オタク的な推論もあり、いわゆるアテンション・エコノミー、つまり注目を集めることで広告収入を稼ぐ構造の中で、あらゆるタイプの発話がネット上に歴史の語りとして出てくる。そうしたメディア構造の中で、マスメディアという基盤に支えられてきた歴史の語り、ナショナル・アイデンティティが溶解していったと思います。  ですから、二〇〇〇年代以降の歴史の語りは、拡散し、多極的に同時多発化し、カオス状態の中で注目を競うネット社会の語りの一部を成していった。そうであるがゆえに、アメリカではトランプ再選現象が起こったり、日本では兵庫県知事選や都知事選みたいなことが起こったり、無数のことが起こってきた。そのような臨界的な状況で、私たちは歴史の語りをどのように再構築することができるのか。これはまさに、二〇二〇年代の今、問われていることだと思います。  成田 全く同感です。歴史学は、〈いま〉と〈他者〉への問いかけが出発点にあります。語っている「現在」と同時に、語っている「私」をも併せて問う磁場を想定し、〈いま〉、〈誰が/誰に/何を〉語っているのかということを、歴史を語る出発点としています。かくして、歴史学は過去を対象とすることを通じて〈いま〉と〈他者〉(=私)の関係を探ってきたのですが、その作法が揺らいでいます。  しかし、歴史を学ぶ人間からするとき、揺らぎの中においても核となる論点と領域があります。歴史教育の問題/領域です。歴史学が変化の相に晒され、歴史の出発点となる「事実」の実在性が問われる中、教室の場、歴史教育の場においては、その事実を軸とし歴史像を提供する場となっています。歴史学の可能性の場であり、そこは嘆きの場とはなっていません。  ここでは、「事実」=歴史的出来事が客観的な出来事として、あらかじめ自明のものとしてあるのではないということを出発点としています。今までは、歴史は与えられるものであり、事実を理解するという位相のもとに置かれていました。しかし、あらためて、歴史に対して「問い」を立てること――このことが歴史教育の場で実践されています。すなわち、歴史に対し問いを立てることによって、歴史との対話を試みるのです。歴史を受け身に捉え、「事実」として/「事実」を一方的に与えられるのではなく、歴史に向き合い「問い」を立てるという主体的な営み――そのことが、いま、歴史教育では実践されています。  「歴史総合」という新しく作られた科目では、現在の自分から歴史に対して問いを立て、生徒が仮説を生み出し、互いに対話し議論するということが実践されています。歴史教育という現場での歴史実践が、あらたな歴史の語りに向かっています。グローバリゼーションの進展と現在のメディア状況下で、歴史が溶解/崩壊していく中、過去の語り方の模索が教室で実践されています。  吉見 ネットメディアでは、誰でもが歴史の発信者になり得る。その発信者の中には真偽の定かでない発信も多々含まれてくること自体は、否定のしようも拒否のしようもない。また、こうした状況全体が悪いことと断定することは、私はできないと思います。  そうではなく、無数の声が現れてくるのならば、どのような声を育て、どのような共有知をそこから作り出していけるのか、そこのところが改めて問われているのです。今、成田さんの言われたことに、デジタル・アーカイブと歴史の語りの関係という観点から一言、付け加えておきます。  これまでの歴史のほとんどでは、教科書やマスメディアが主要な語りの基盤を独占してきたのですが、実はその周辺に無数の歴史的なコンテンツが重層的に堆積されてきたのだと思います。近代日本の歴史は、すでに一五〇年以上も経ているわけですから、新聞や雑誌、手記、細かな出版物、音声データも含め、堆積しているコンテンツが無数にある。そしてその無数のコンテンツへのアクセシビリティは、ネット社会の中で劇的に拡大した。近年、国立国会図書館も個人に対するネットからのアクセスを相当緩和してアクセシビリティは高まっています。  さらに、もしもNHKが番組コンテンツをもっとオープンにしていけば、八〇万もの番組コンテンツや五〇〇万とも六〇〇万とも言われるニュースのコンテンツがすでにデジタル化されて川口のNHKアーカイブスに蓄積されているわけです。ネット上で浮遊している真偽の定かでない情報ではなくて、国会図書館やNHK、放送局、新聞社等々がそれなりに検証した一定程度の信頼性が担保されたデータに万人がアクセスできるシステムを日本社会が作ることができれば、そのコンテンツに対して、子どもたち、あるいは普通の市民がそれぞれ問いを立て、そこからそれぞれの戦後史とか現代史というものを語れるわけです。その上で、例えば一五分間の歴史ドキュメンタリーをすべての高校生がそれぞれ作ってネットにアップする。それを歴史ドキュメンタリー高校生大賞みたいなコンテストで審査するとか、そういうことで歴史を複数化していくことができる。  先ほど申し上げたように、歴史はそもそも複数形で、空間的にも社会的にもあちこちに散らばっている。複数形である歴史を単数形にしていたのがこれまでのナショナル・ヒストリーで、昭和一〇〇年とか戦後八〇年とか記念年を通じても記憶の単数化が行われてきた。でも、今日のデジタル技術的な環境としては、私たちの歴史的記憶をもっと複数化し、オープンに構造化していくことができる。その複数化した記憶のクオリティを上げていくために、公共的なアーカイブ基盤を充実させ、蓄積されたデータに対してみんなが問いを発する。さらにそこからみんなでコンテンツを作って評価し合う。そういう仕組みこそが二十一世紀の歴史の語りなんだと私は思います。  ★なりた・りゅういち=日本女子大学名誉教授。日本近現代史・都市社会史。著書に『近現代日本史との対話』(全二巻)『近現代日本史と歴史学』『シリーズ日本近現代史 大正デモクラシー』『歴史論集』(全三巻)、編著に『シリーズ歴史総合を学ぶ 世界史の考え方』『〈世界史〉をいかに語るか グローバル時代の歴史像』ほか多数。一九五一年生。  ★よしみ・しゅんや=東京大学名誉教授・國學院大學教授。社会学・文化研究・メディア研究。著書に『都市のドラマトゥルギー』『空爆論』『平成時代』『ポスト戦後社会』『アメリカ・イン・ジャパン』『東京裏返し』、近著に『このとき、夜のはずれで、サイレンが鳴った』(原広司共著)ほか多数。一九五七年生。