2025/07/18号 4面

誰も知らないロシア

石川知仁著『誰も知らないロシア』(河村 彩)
誰も知らないロシア 石川 知仁著 河村 彩  著者は日本の大学とモスクワでロシア語を学んだのち、2021年から2023年にかけてモスクワの日本大使館に勤務した若き外交官である。著者がモスクワに滞在していた最中の2022年2月、ロシアはウクライナに侵攻し、現在でも停戦の目処は立っていない。  周囲のロシア人たちの動揺、不安、怒り、そして諦めを間近で受け止めることになった著者は、大学での勉強やそれまでの居住経験を通して、それなりに知っていたはずのロシアについて再考することを迫られた。本書では、侵攻後に改めてロシアと向き合おうとする著者の思考が綴られる。主として取り上げられるのはポップカルチャーやロシア人の生活といった身近なテーマだが、随所にロシアの文学や歴史を踏まえた考察が散りばめられ、ロシア文化の「誰も知らない」隠された本質を探り当てることが試みられている。  本書は二部構成をとっており、第一部では演劇や民族楽器、ヒップホップといった新旧のポピュラー音楽、ソ連崩壊以降にヒットした映画など、比較的最近の作品や若い世代に人気のあるミュージシャンが紹介される。それらが、少なからずその時の社会情勢を反映し、人々が漠然と感じている空気を巧みに捉えていることを、著者は読み解く。  たとえば、2010年代のヒップホップシーンを席巻したラッパーのオクシミロンは、国家権力との対立を歌詞に盛り込み、ウクライナ侵攻後は戦争反対を訴えながら政治性の強い曲を次々に発表した。当然ロシアでは彼の曲は放送禁止となった。あるいは、マフィアの暗躍するソ連崩壊後の社会を描いたバラバーノフ監督の『ブラザー』では、主人公はチェチェン紛争の帰還兵であり暴力を生業とするが、その一方で愛すべき好青年の表情を見せる。著者は、この映画がロシア人の心をとらえたのは、主人公が90年代の「時代の肖像」であり、矛盾したキャラクターが共感を呼び起こしたからだと考える。  ロシア人自身も芸術作品が社会を反映するという根強い感覚を持っている。著者はロシアでは演劇は面白いものを見せるショーではなく、世の中で葛藤する人間のリアルな姿を観客に見せるという。そして、戦争後も劇場が大入り満員だったのは、観客が社会で生じている想定外の出来事に対する「答え合わせ」を求めていたからではないかと推測する。  本書では音楽や映画の他にも、ロシアで独自に発展したインタビュー動画などが紹介され、YouTube上でアクセスしやすいものが選ばれている。大学でロシア語の勉強を始めたものの、コロナ禍と戦争の影響で渡航が叶わず、残念な思いをしている学生も少なくないだろう。本書はそのような人々にとっても大いに興味を惹く内容となっている。  第二部ではロシアでの衣食住や伝統行事、ロシア人のマナーやコミュニケーションの特徴、学生生活の様子やロシア語のスラング、ファストフードや中央アジア出身の移民たちなどロシアの日常生活が解説され、現在のロシアの生活はソ連時代の名残と国外から流入する新しいものがミックスして成り立っていることに改めて気付かされる。著者の体験をもとにしたエピソードが織り交ぜられ、ロシアでの生活が生き生きと感じられる。  著者はウクライナ戦争には誰もが少なからず傷つき、皆葛藤や苦しみを抱きながらそれぞれの「戦場」で戦っているという。中でも胸が痛くなったのは、学生やロシア人たちが徐々に戦争について話さなくなっていったというエピソードである。政治に関する意見が食い違ったために口論が生じ、親友や肉親と決定的な仲違いを経験したロシア人は少なくないという。侵攻直後、私のFacebookのタイムラインはロシア人たちによる戦争反対の投稿で溢れかえったが、反戦を唱えること自体が禁止され、国外へのインターネットアクセスが制限されると、ロシア人たちの投稿はFacebookから消えてなくなった。ロシアを外から眺めるわれわれは、なぜ語られないのか、沈黙そのものが何を意味しているのかに想像力をめぐらす必要があるだろう。(かわむら・あや=東京科学大学准教授・ロシア・ソヴィエト文化・近現代美術)  ★いしかわ・ともひと=外務省職員。二〇二一年から二〇二三年にかけて在モスクワ日本大使館に勤務。

書籍

書籍名 誰も知らないロシア
ISBN13 9784779130496
ISBN10 4779130492