2025/11/07号 6面

エッセンス・オブ・リバーズ

エッセンス・オブ・リバーズ カート・D・ファウシュ著 島田 祥輔  「川は思っている以上に『深い』のです」。本書の「はじめに」に書かれている一文だ。もちろん、水深が何メートルもあるという意味ではない。川は、単に魚類が生息しているだけでなく、その周囲で生きている昆虫や動物も含めた生態系を支えている奥深い存在であり、研究対象として興味深いという意味が込められている。  著者のカート・ファウシュ氏は約五十年にわたり、河川に生息する魚類や周囲の環境について研究を続けてきた。現在はコロラド州立大学で名誉教授を務めており、これだけ聞くと海外での研究を想像するかもしれないが、本書の最初の舞台はなんと北海道だ。一九九一年の野外調査では、オショロコマとアメマスというイワナ属の魚の生息分布を調べている。調査時期は初夏とはいえ北海道。「水に二十分ほどじっと浸かっただけで、ドライスーツの下に着ていた二枚重ねのフリースを通し、水温七℃の冷たさが伝わってきた」とあるように、フィールドワークは過酷だ。  この野外調査をともに行ったのが、本書のもう一人の主人公とも言える、中野繁氏だ。二人は札幌で開催された国際学会で知り合い、ファウシュ氏はこの出会いが自分の研究の方向性を決めたと振り返っている。オショロコマの分布について、「コロラドで私のアイディアに興味をもつ人はほとんどいなかったのに、私の眼の前に、北日本で基礎調査を終えた科学者がいる」。その科学者が中野氏だった。  二人の興味はやがて、河川に生息する魚から、川に落下する昆虫や岩の表面に生える藻にも広がっていく。川に落下する昆虫は、魚にとって立派なエサであり、もし川に昆虫が落下しなければ魚はどうなるのか、その変化は藻にも影響するのか。人間から見れば昆虫の落下は大したことのないことのない現象に思えるが、中野氏は大胆な発想でこの疑問に答えようとした。それは、川をビニールハウスのようなもので覆い、昆虫が川に落下しないようにする、というものだった。詳細な結果は本書を読んでいただきたいが、川と林・草原の間にある昆虫のつながりを断ち切ると、川だけでなく周囲の生物の半分以上が姿を消し、生態系を変える可能性があることを発見した。この発見をまとめた論文は二〇〇一年に発表され、千回以上も引用されているほど、河川の生態学における金字塔の一つになっている。  しかし、その論文が発表される前年、中野氏は悪天候の海でボートが転覆し、この世を去る。三十七歳の若さだった。しかし、死んだ後も研究成果や研究意志が残るのが科学である。ファウシュ氏も喪失感から一度は日本での調査に区切りをつけようとしたものの、「中野氏が論文に残した手がかりこそ、私の気持ちに火をつけた」とあるように、研究に終わりはなく、世代を超えて受け継がれていくものだ。二〇〇二年、ファウシュ氏は再び北海道に赴き、中野氏の仲間とともに川にビニールハウスを設置する実験を行うことになる。今では、川と周辺環境においてさまざまな生物を介して起きる相互作用は「リバースケープ」というコンセプトでよばれている。リバースケープという考えのもと、外来種や人の手による環境変化が生態系にどのような影響を及ぼすのかという研究にまで発展している。本書の終盤では、人間や社会にとって川とは何なのか、リバースケープに基づいた川と生態系を保全するための提案も書かれている。  最後に、本書では書かれていないが、研究は受け継がれる例をもう一つ紹介したい。二〇二〇年、中野氏が死去してから二十年後にオショロコマのアゴの形態に関する論文が発表されている。この論文は、なんと中野氏とファウシュ氏らが共著となっている。二十年たってもなお、中野氏の当時の調査結果に敬意がもたれており、論文という形にして世界に発表するという研究の意志が脈々と受け継がれているのだ。本書の副題は「川を愛する科学者の発見の旅」とあるが、研究という旅は孤独ではなく、この世にはいないかつての仲間も含めた冒険だということを感じさせられた。(東知憲訳)(しまだ・しょうすけ=サイエンスライター)  ★カート・D・ファウシュ=アメリカ・コロラド州立大学名誉教授。魚類・野生動物・保全生物学科に三〇年以上勤続。近著に本書の続編“A Reverence for Rivers”がある。

書籍

書籍名 エッセンス・オブ・リバーズ
ISBN13 9784909355515
ISBN10 4909355510