- ジャンル:読書・出版・マスコミ
- 著者/編者: 下平尾直
- 評者: 栗原 康
版元番外地
下平尾 直著
栗原 康
カネなし、部下なし、事務所なし。本書は、創業一一年をむかえる一人出版社、〈共和国〉の下平尾直さん、初の単著である。自伝的エッセイといってもいいだろうか。どうして一人出版社をたちあげたのか。その経緯を過去へ過去へとさかのぼり、そこに自身の読書体験もまじえて、どんどん掘り下げていく。
とおもっていたら、途中から本の話に夢中になって、けっきょく一人出版社のことはそっちのけ。大好きなドストエフスキー論で爆走していく。本の目的をとびこえて、下平尾さんの思考が躍動していく。だれかのため、なにかのための手段になんてならないんだよ。アナーキーでしょ。
ところで、本書がおもしろいのは、下平尾さんが大学院時代からかかえてきた病気と、小学校時代の記憶、そしてドストエフスキー『罪と罰』の読書体験。その三つが重なってくるところだ。
まずは、大学院時代。下平尾さんは突発性難聴を発症し、いまでは左耳がほとんどきこえない。音楽好きの下平尾さん。つらい。ずっと楽器のチューニングが狂っている感じなんだという。しかも、その身体のズレや傾きが下平尾さんにとって自然なことになっているのに、目にみえないからか、まわりはとりあってくれない。配慮もない、考慮もない。自然の傾きによりそっていきたい。
もうひとつは大阪岸和田の少年時代。どうも小学校の通学路にトタンでできた掘立小屋があったのだという。そこに七〇代くらいのお婆さんが一人で暮らしていた。雨じゃなければ、外に七輪をだして、アルミ製の鍋にそこらの雑草をいれて食べている。人目も気にせず、ウンコもおしっこも川辺でホイ。すごい。
でもある日、下平尾さんの友だちがお婆さんに近づいていって、ウラアと鍋を蹴りとばしてしまう。あゝ。そのときの、お婆さんの顔が忘れられない。もとより、お婆さんの生き方は世間からしたらズレているけれど、本人にとっては自然なのだ。バカにしたり、悪として罰していいものじゃない。あのとき、どうして友だちをとめられなかったのか。考えちゃうよね。
三つめは『罪と罰』。この本には、貧民街で生きる人びとがたくさんでてくる。道行くひとから黙殺され、軽蔑されて生きることしかできない人びとだ。アルコール中毒者、前科者、ホームレス、娼婦、大道芸人……。下平尾さんが注目するのは、主人公ラスコーリニコフの友人、ソーニャのお母さんだ。夫を亡くし、アパートも追い出され、幼い子ども三人をかかえて行き場を失い、発狂。「調子が狂う」。社会とチューニングがあわなくなっちゃったのだ。手にはフライパン。子どもをつれて街頭にでた。大丈夫か!?
しかしそこでは信じられない光景が。かわいた手をバシバシとたたき、絶唱。踊り狂うソーニャママ。ウヒョオォ、ウヒョオォ。叫べ、狂え、跳ねろ。熱気が熱気をよび、市民も貧民もなく、どんどんみる者たちを巻きこんでいく。これを許可なく、即興でやったのだ。ブラボー。まもなくして警察が駆けつけ、排除されてしまう。激昂するママ。ぐふぇええと血を吐き、そのまま死んでしまう。アーメン。
なにが言いたかったのか。歌え、踊れ。狂ったチューニングのまま、音をかきならせばいい。ただそれだけで社会が覆る。市民か貧民か。正常か異常か。善か悪か。軽蔑のまなざしをむけられ、黙殺されるか、好奇の目にさらされるだけだった貧民が、異常とみなされていたその傾きのままに歌いだす。ぴょんぴょん跳びはね、あたりまえのように境界をこえる。いちど踊れば、みんな阿呆。市民も貧民も、正常も異常もなくなってしまう。善悪の彼岸へひとっとび。これほど革命的なことはあるだろうか。
まとめます。〈共和国〉とはなにか。爆音をかきならすチューニングの狂ったおじさんだ。気持ちがいいだけの音はもうたくさん。感覚がマヒして、なにも考えなくなってしまう。この社会に激震を走らせよう。脳天をぶちぬくナオシの歌。ロマンチックあげるよ。版元バカ一代。(くりはら・やすし=アナキズム研究・政治学者)
★しもひらお・なおし=株式会社共和国代表。出版社などに勤務ののち、二〇一四年に株式会社共和国を創業。二〇二一年に出版梓会「第一八回新聞社学芸賞」を受賞。二〇二五年五月時点の刊行点数九四点。
書籍
書籍名 | 版元番外地 |
ISBN13 | 9784910108223 |
ISBN10 | 491010822X |