2025/07/11号 5面

「ブニュエルとスペイン」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 398 ブニュエルとスペイン  JD ルイス・ブニュエルは、政府が隠しておきたい人々の姿を撮影してしまった。結果として、『糧なき土地』は政府に上映を禁止され、彼はスペインから逃亡することを余儀なくされ、アメリカに渡ることになりました。そのまま一五年近く映画を撮ることができずに過ごした後、メキシコで映画監督として再び活動することになります。そしてメキシコ映画の黄金期の一部を成した後は、フランスに戻り映画を作り続けました。結局、スペインに戻ることはありませんでした。彼はスペインの映画監督には成りきれなかったということです。  HK アルベルト・セラがスペインでは映画を作れず、フランス資本で映画を作っているのと状況が重なります。  JD はい。歴史的に、スペイン映画はフランス映画の影響下にありました。ポルトガル映画にも、そうした一面があります。スペイン、ポルトガルと西ヨーロッパの国では、映画を作ることが容易ではなかった。それらの国にも映画は存在していましたが、公的なものであり、作家による芸術映画は存在が難しい状況が長く続いていたのです。オリヴェイラは長年映画を作れずに、晩年はフランス資本で映画を作ることになりました。彼の映画の制作をしていたパウロ・ブランコも、パリに来て映画館を所有したりして、フランスの観客のことを考え続けていました。ポルトガルやスペインの映画市場は非常に限られた狭い範囲でしか存在していませんから、経営的な考えを持つならばフランスに来るのは当然とも言えます。さらには、フランスには伝統的に――ある種の規制はありますが――表現の自由があります。加えて、映画の表現法も西ヨーロッパに大きな影響を与えてきました。  ブニュエルについて言えば、ジャン・エプシュタインの下で映画作りを学んでいます。また彼の最初期の映画は、パリのシュルレアリスムの仲間内で見るために作られたところがあります。そうしたことからしても、ブニュエルは完全にスペインの映画監督とは言い切れないのです。しかしながら、スペインとブニュエルを切り離すことはできません。なぜならブニュエルは本当にスペイン的だったからです。セラにも同じことが言えます。彼らの映画に対する考え方、世界に対する考え方、生に対する向き合い方は、フランス人のものとは完全に異なります。二人とも、フランス資本で、フランスを舞台に映画を撮っていたとしても、外部からフランスを見ており、その考え方はスペイン風なのです。  HK スペインの映画作家というと、ビクトル・エリセ、アドルフォ・アリエッタ、カルロス・サウラ、ジェス・フランコなどがいます。彼らはスペインという国を代弁することができていたとは思いませんか?  JD 反対にお聞きしたいのですが、その中の誰がスペイン映画を本当に体現できていたと思いますか? ビクトル・エリセは、映画についてとても詳しく感傷的ですが、ほとんど映画を撮れていない。アリエッタは――彼のことを私は、六〇年代の終わりから知っています――、ほとんどフランス人の監督になっています。フランコは――私はほとんど興味がありません——ジャンル映画の巨匠ですから、いわば国籍のないようなところがあります。そして、カルロス・サウラですが、ポストカードのような紋切り型のスペイン像を撮影しているだけです。彼には、フラメンコとアンダルシアの風景があれば十分であった。少し言い過ぎたかもしれませんが、総じてスペインの映画は受難の歴史を歩んだと言えます。  私が気に入っている映画作家を挙げるとするならば、ペドロ・アルモドバルです。彼は、スペインから出てきた本当に重要な映画作家です。  HK アルモドバルの背後には、エロイ・デ・ラ・イグレシアらによる「キンキ・シネマ」(社会の余白にいる人々を主役とするスペインの映画ジャンル)の映画作家の歴史がありました。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテーク・ブルゴーニュ)