2025/10/31号 5面

昏い時代の読書

昏い時代の読書 道籏 泰三著 李 承俊  この本は熱い。読者の胸を熱くするといったほうが正確になろう。それは、思想や批評のさめた頭からの言葉によってではなく、心の奥底からの祈りの熱によって書かれているからだと思う。これまで書評を書く際は、たいてい読み終わってから数日経って、改めて取っておいたメモや本の中の傍線などを見返しながら本の中身を頭の中で掘り起こすのが自分のルーチンであった。しかし、この本の場合は、読み終わるや否やパソコンの前に座っている。これは自分の意思によるというより、本書にそうさせられているといったほうが正確だろう。何にそうさせられているのか。答えは簡単である。著者の祈りが私の心に響いたからだ。  本書の構成と内容はいたってシンプルである。日本近代文学の五人の作家――宮嶋資夫、太宰治、坂口安吾、桐山襲、野坂昭如――に関する読書記録である。そこには、たとえばこれらの作家たちに対する常識を覆すような挑発的な解釈が新たに提示されているわけでもなく、また五人の名前から連想されるイメージがきれいに払い落とされ全く異なる色合いが上塗りされているわけでもない。けれども、この本をもって著者のいわんとしているメッセージの放つ光は眩しいほど強烈だ。本書が構想された動機からそれは確認できる。それは、「五人のもの書きたちの作品のうちに、終わりなき終焉としてのそんな現代の姿が透かし出そうとするところにあった」のである。  著者は、宮嶋資夫の「死の欲動」に突き動かされる生と文学の中に、夢など持ち得ない赤裸々な人間のどん底を見る。太宰治の掟破り(欲望)―死―無何有という三鼎の構成から浮かび上がるのは、希望が消滅しつつある時代を、身をもって踠きながら生きる生そのものの手触りであろう。白紙状態にたたずむ坂口安吾によって人間たるものの獣性があるがままに描かれ、希望などありもしない時代を生きる現代人のわれわれの姿が照らし出される。敗戦後の復興と繁栄に狂奔する無責任体制(似非民主主義)とその背後で生き延びている天皇制への敵討ちを夢見る桐山襲の希望なき文学は、叛逆と絶望の無限ループというプロセスそのものを直視することの意味をほのめかす。「違う世界」は、いつか、その果てに訪れるかもしれない。野坂昭如に関しては直接引用しよう。「野坂の文学の真骨頂は、すでにみた坂口の文学が、空虚ながらもいわばユートピアとしての「ふるさと」を求めての彷徨だったのに対して、それすらさらりと捨てて、彷徨それ自体にディストピアを浮かび上がらせるところにあると言うのがいいのかもしれない」。だが野坂の破局の妄想は逆説的にも美を呼び出すささやきとなる。ディストピアの極限を描き求める野坂の文学が指し示す彼方から、暗闇を突き抜けてこちらへと駆け寄ってくる一筋のかすかな閃光が見えるようだ。それをユートピアなどと決めつけることはよしておく。著者にならって、それが「違う世界」でありますようにと、ただ祈りたい。  著者が見つめる現代の姿とは、資本主義に翻弄され振り回されている近代性の連続線上にあるものである。著者の祈りは、現代の行く末への願いにとどまらない。時を遡って日本の近代化・帝国化の過ちを悔い改める懺悔の祈りにもなるはずだ。私が読み終わってすぐ書評を書こうと思い立ったのは、著者の真摯かつ切実な祈りの息づかいが、私の中に吹き込まれ、その温もりが冷めないうちに書き留めておけば、ひょっとしたらそれがいつかこの本を手にする読者の心にも飛び火するかもしれない――そう期待するからである。  安易な現実参加が繰り返す過誤と後悔を見つめる眼を持つために、あえてこの「現実逃避」の洞窟の中に居座り、流れ込む光が自らをその外へ導き出してくれるのをひたすら待つ、祈りの文学。そしてその祈りに耳を傾ける読書経験から生まれてくる、新たな祈り。したがって、著者にとって、近代がまるで乗り越えられたかのように楽観的なプロパガンダを鳴り響かせる「ポストモダン」的な世間の風潮は、からっぽな祝祭の喧噪にすぎないだろう。まだはやいのだ。祈りは続けられなければならない。私も著者にならって、またこの五人の文学を嚙み締めながら、祈るつもりである。「残酷な楽観性」(ローレン・バーラント)を抱かせてくれるこの生を、体当たりで生き抜きながら、いつかやってくる「違う世界」を。(イ・スンジュン=世宗大学助教授・日本近現代文学・文化)  ★みちはた・たいぞう=ドイツ文学者。著書に『ベンヤミン解読』『堕ちゆく者たちの反転』など。一九四九年生。

書籍

書籍名 昏い時代の読書
ISBN13 9784065406670
ISBN10 4065406676