2025/06/06号 4面

「ロシア精神」の形成と現代

「ロシア精神」の形成と現代 三浦 清美編著/高橋 沙奈美・藤原 潤子・井上 まどか著 越野 剛  二〇二二年二月のロシアによるウクライナ侵攻によって中断と変更を余儀なくされた共同研究の内から、きわめてアクチュアルな問題意識をもって生み出されたのが本書である。四人の著者は「ロシア精神」というテーマについて必ずしも統一した見解を持つには至っていないが、それがゆえに各章の合間に緊張感のある対話を読み取ることができる。研究対象の内側に入り込むことでロシア人の偏向した政治意識を研究者が共有してしまうことの危険を指摘する高橋の序章と、それに対して内在化のリスクを背負ってロシアの深部に踏み込まなくては本質を知ることはできないとする三浦の終章とは、単に意見が対立しているというだけではない。むしろどんな研究者の内にもある葛藤を相補的に示しているといえよう。  本書は編者でもある三浦の執筆した三・六・七・八章が太い道筋を通し、他の三名による論考と随所でゆるやかに連結する構成となっている。その中で最も分厚い三章は、中世の教会文献に見られるロードとロージャニツァという謎めいた男女二対の神格を扱う。聖職者たちは民衆がその前で冒瀆的な宴会を開くことを度々批判しつつも、謎めいた神々の具体的な描写を残さなかった。ここでは文献学、比較神話学、民俗学の知見を丹念に生かすことで、オシリスとイシス、アルテミス、ディオニュソスなどの古典古代の神々、スラヴの妖怪として知られる吸血鬼やルサルカ、異教神のヴォロスとモコシなどとの接点が明らかになり、そうした要素がキリスト教の聖母像に融合していく過程が解き明かされる。ひとことでキリスト教受容以前の異教信仰といってもそれは単一のものではない。様々な文化圏との相互関係を経た多重の層を一枚一枚はがしていく工程は驚くほど豊かだ。カルロ・ギンズブルグが近世の異端審問の記録の中から特異な信仰の世界を発見した仕事を思い起こさせる。キリスト教と異教崇拝は二重信仰の関係にあったといわれるが、その境界線は常に明確であったわけではなく、もつれた糸のように絡み合っていたと想像したほうがよさそうだ。一・二章の藤原の論考でくわしく分析される人気呪術師ステパーノヴァの呪文を信じる現代のロシア人たちの意識においてもまた、異教とキリスト教の要素は切れ目なくつながっている。  六章では権力闘争に敗れて殺害され、キエフ・ルーシにおける最初の聖人になったボリスとグレープの兄弟を扱う。二人のうち、弟のグレープの遺体を目にした人々の反応を示すたった一つの不可解な動詞の意味をめぐって、歴史探偵の謎解きのようなスリリングな論が展開される。キリスト教の聖人についての物語の中に、非業の死を遂げた者の遺体が怪異に変じて災いをもたらすという古い迷信が描かれているというのだ。それに続く七章ではその構図が逆となり、従来の解釈では異教信仰の名残を豊富にとどめると考えられてきた中世文学の傑作『イーゴリ軍記』が、実はキリスト教文学の典型的なプロットに忠実な作品であることが論証される。いずれも資料の中に二重信仰の実相を読み取ることの難しさと面白さが示されている。ボリスとグレープのような政治的な犠牲者の像が聖なるものへと変貌する経緯は、革命で処刑されたニコライ二世に関する五章の高橋の論考が「犠牲者ナショナリズム」の近代的な枠組みのもとで考察しており興味深い。  八章は東方正教会が独自に発展させた「人が神になる」というテオーシスの概念に焦点をあてる。「本質は人間の目に隠されている」と考えるユダヤの文化と「存在するものはすべて目に見える」とするギリシアの文化がビザンツの文学において融合し、その系譜を継いだ中世ロシアの『ラザロ復活に寄せる講話』では人間には見えないはずの地獄が生き生きと描写される。そこには人間の目に神の視点がもたらされている、つまりテオーシスが成立するというのだ。イコン画の逆遠近法と重ねる発想も興味深い。ややアクロバティックな発想にも見えるところや、研究対象の内在化というリスクの点からも、賛否両論を呼びそうだが、ロシア精神とは何かという問いにひとつの解答を提示していることは間違いない。西欧で近代的な精神が誕生したルネッサンスと宗教改革の時代に、それとは異なるロシアの独自性が形成されたとする三浦の主張は、まさにその時代にイワン雷帝の宮廷で活躍した外交官による外部からの眼差しを論じた四章の井上論考によって補足される。本書では特に言及されていないが、ロシアとは異なり、部分的にであれルネサンス文化に接触したウクライナがロシア精神から離れていく最初の分岐点をここに見ることもできるだろう。  専門家ではない者には理解しにくい箇所もあるが、ロシア文化史に関する最新の学術的知見を盛り込みながら、しなやかに論を展開する本書が、戦争の時代に日本の読者に提供されたことを喜びたい。(こしの・ごう=慶應義塾大学文学部教授・ロシア文学・文化史)  ★みうら・きよはる=早稲田大学文学学術院教授・スラヴ文献学・中世ロシア文学・中世ロシア史。  ★たかはし・さなみ=九州大学大学院講師・宗教人類学。  ★ふじわら・じゅんこ=神戸市外国語大学准教授・かけはし出版代表・文化人類学。  ★いのうえ・まどか=清泉女子大学准教授・宗教学宗教史学・近現代ロシア宗教史。

書籍

書籍名 「ロシア精神」の形成と現代
ISBN13 9784879844583
ISBN10 4879844586