2025/02/28号 4面

グラスランの経済学

グラスランの経済学 山本 英子著 田中 秀臣  18世紀後半のフランス経済学は、日本では今まで『経済表』のケネーや、またチュルゴを中心にして研究が深められてきた。本書は、ケネーらの同時代人であるジャン=ジョセフ=ルイ・グラスラン(1727―1790)の経済学を、日本で初めて単著として研究した意欲作だ。グラスランの紹介自体は、明治44年に、福田徳三の編纂する『経済大辞書』で、小泉信三がグラスランの項目を書いたのが初めである。また福田の弟子であった手塚寿郎が、主観的価値論(今日の経済学の淵源)の貢献としてチュルゴの『価値と貨幣』(諸説あるが1767年に完成)を取り上げた際に、その主観的価値論はグラスランの主著『富と税の分析試論』(1767年、以下『試論』)を読んだ影響だと特定した。つまり現代経済学の形成にグラスランは決定的な役割を果たしたことになる。このグラスランに対する手塚の高い評価は、本書でさらに強化されている。つまり現代経済学の祖のひとりとしてグラスランを再評価することが、本書の主要な狙いである。  手塚以後も、山川義雄、津田内匠、そして最近では米田昇平の意欲的なグラスラン研究が続いている。他方で、本書にも大きな影響を及ぼしているのが、海外での「グラスラン再発見」とでもいうべき最近の研究動向である。まずグラスランの代表作である『試論』が詳細な研究成果を付して再刊された。またフランスのナント周辺の都市整備に尽力し、ロシアのエカテリーナ2世へ土地制度改革の提言をするなど、グラスランの政策当事者としての力量を再評価する研究も出た。本書が英訳などされればこの「グラスラン再発見」の流れにつながり、学界はさらに盛り上がるだろう。  この最新の研究動向の中で、本書の最も意欲的な視点は、グラスランが今日の経済学の祖のひとりである、というものだ。今までは、経済学の祖としては、アダム・スミスやケネーなどの名前が通例だった。本書では、グラスランを主観的価値論の祖とし、特に限界革命の先駆者として位置づけ直している。今日の経済学の教科書では、限界効用やその逓減の法則、そこから洗練化された序数的な選択関数を用いる消費者選択理論が基本だ。グラスランはこの限界効用理論を先駆的な形態で述べた最初期の経済学者である、というのが本書の最大の貢献だ。  また本書では、グラスランの生涯を丁寧に解説している。グラスランの人生の大半は、ナント地方での財務官僚の任務に捧げられた。グラスランが学術分野で名前を知られるのは、ケネーら重農主義の批判を展開した『試論』の公表によってだ。ケネーでは、自然法の秩序から富はもっぱら土地の成果物である。だがグラスランは、富とは人間の欲求とその対象物の希少性とによって価値をもつすべてであると定義する。まさに人間の主観的価値が富を決めるのだ。ケネーらでは農産物のみが主な課税対象だが、グラスランは人間の価値の対象全体なのでより広範囲な課税ができ、その結果、国家はさらに富むことになるという財務官僚的な視点がある。  ところで主観的価値論には、ふたつの流れがある。一つは、現代の限界効用理論につながるものである。これは専門的にいえば、連続的な選好関係と連続的な効用関数で人間の選択行動を考えるものである(参考:マランヴォー『ミクロ経済理論講義』など)。くだいていうと、本書でもテーマになっている水とダイヤモンドには質的な区別がない。問題は、水とダイヤモンドをそれぞれどれだけ選ぶかだ。これが今日の経済学である。ところがもうひとつの主観的価値論がある。それが本書でもグラスランとの比較で持ち出されているカール・メンガーの「必要」論だ。喉が渇いている人にとっては、水はダイヤモンドとはまったく異なる優先的な選択対象となる。この場合、水を選ぶ必要はあるが、ダイヤはまったく必要がない。  本書のグラスランの主観的価値論の解釈は、メンガーに依拠し、それは必要概念、専門的にいえば不連続な選好関係(辞書式選好)に基づくものとして解釈している。だが、これは本書のいうような今日の限界効用理論には結びつくことは難しい。ニコラス・ジョージェスク=レーゲンが指摘したように(「経済思想における効用と価値」)、現代の経済学の主流とは異なる、人間の生物としての根源に根差す欲求のヒエラルキーを先駆的に解き明かしたものとして、グラスランを評価すべきなのかもしれない。(たなか・ひでとみ=経済学者・上武大学教授)  ★やまもと・えいこ=成蹊大学・明治学院大学ほか非常勤講師・経済学史。

書籍

書籍名 グラスランの経済学
ISBN13 9784657248053
ISBN10 4657248057