戦後ドイツと知識人
橋本 紘樹著
初見 基
本書の主題は書名に端的に示されている。それは、「戦後ドイツ」の政治文化、ここにその一斑を支えた「知識人」たちの理論と実践から光を当てること、それとともにまた「知識人」というあり方がいかなるものであるか、いかなるものであるべきか、「戦後ドイツ」という場に即して考察すること、と言える。その際問題にされる「知識人」とは、理論(ありうべき規範を支える知)を実践(その規範を現実に反映させる運動)へとつなぐ機能を担う者、と理解できる。
かように記せばあまりに広大で漠然とした領域に向かうかのようだが、扱われる対象は絞られており、「大問題」を念頭に置きながらもむやみな拡散は避けられ、求心的な思考が一貫されている。
議論は戦後亡命先から帰還したテーオドア・W・アドルノにはじまり、主として一九五〇/六〇年代、保守的ないし復古的な政治風土が徐々に変化しつつあった西ドイツにあり、一方でアドルノの衣鉢を継ぐユルゲン・ハーバーマス、他方で六〇年代以降数々の政治的・社会的発言を披露した詩人・批評家のH・M・エンツェンスベルガーを例として、もはや《「一般性/普遍性」を素朴に標榜できない時代における、政治的ないしは公的な場で知的批判を行う知識人の役割》を検討するというかたちで進められる。そのなかで著者橋本氏が重要な契機として強調するのが、「自己省察」と「討議」だった。
『啓蒙の弁証法』などでの悲観的な記述から生じた、観想的・非実践的な思想家という戦後のアドルノ像に対しては、この四半世紀ほどの研究では、ホルクハイマーのヘッセン州での教育改革への関与やフランクフルト社会研究所での共同研究などを含めて、とりわけ一九六〇年代以降拡がる「過去の克服」の論調を準備し、むしろ「啓蒙」「自律への教育」に寄与した面が強調されるようになった。本書もアドルノ評価のそうした流れを汲んでいる。
社会のうちにある以上それに超越的な立場をとりえず、それにもかかわらずそこに絡め取られずに社会を批判するためには、それとの距離を維持するべく《思考する主観性》としての「自己省察」が必要とされる。ただそれは、自閉された空間で独話としてなされるのではなく、普遍性を求める以上は「公共」的に共有されなければならず、そこには他者との「討議」もまた欠かせない。こうしたアドルノ理解が本書の主導動機と呼べる。そしてこの「討議」の一環として、講演やアーノルト・ゲーレンとの対話の放送などのアドルノ自身による《メディア実践》が強調されている点は、本書の特性のひとつだ。
転じて、《「人間」として互いの主観性について理解を求めようとする私人たちが集い、公権力に対して相互に共通する利害を訴えることで、支配そのものから独立しようとする普遍的な要求を現実に成立させようとした、という歴史的推移》に注目したのがハーバーマスだった。そこから、《「自己省察」的な社会批判の目指す「解放」とは、社会における「歪められたコミュニケーション」の是正を意味するのであり、そうであれば、独善的な解釈は問題とならず、公共圏における討議が必要となる》。これは後に『コミュニケーション行為の理論』でさらに整備される。
《形式化された法体制にも肯定的な契機》を看て取るアドルノ、《自由な「個人性」は「制度」との関連で、「社会的に実現される」》と考え《民主主義を保障する西ドイツ「国家」の存在意義》を重視するハーバーマス、この二人は「一九六八年」の政治的叛乱に激しく敵対せざるをえなかった。現行制度を否定するにしても、そのなかでこそ「討議」が保障されている以上この制度もまた「普遍的規範」を志向していると考え、そこで現行規範に則りながらの漸進的な改良の側につきいわば革命幻想を退ける姿勢が、「公共的コミュニケーション」を充分に形成できないままに戦後民主主義を欺瞞として全否定し西ドイツ国家そのものを転覆するべく既成秩序破壊行動に走る叛乱側と衝突するのは必定だった。
対するに、一九六八年の叛乱側に伴走してみせたエンツェンスベルガーではあったが、彼にしても《既存の社会から切り離された言語を求める姿勢には現状を批判する契機が含まれているのであり、それこそが詩の社会性》であるというアドルノの議論から影響を受けつつ、自覚的な「代替知識人」としてそれをより肯定的実践で実現しようとしていた。《政治的実践と文学的実践の融合関係》のなかからの社会変革を目指す、《詩人や作家であるからこそ果たしうる社会参加》という、社会理論とはまた異なった相がここからは窺える。彼の『時刻表』誌刊行への参加が、《議論の場となるメディアの創出》という実践と理解されるだけではない。《当時のエンツェンスベルガーが志向していた「自己省察」ならびに「大いなる対話」という討議的プログラムの内実》として、《抗議運動とその反対者たち双方の問題性を自覚させる性質を有した、二方向への「自己省察」を促す》作品であるという『ハバナの審問』が挙げられ、《安易な「暴力」への傾斜ではなく「大いなる対話」を通じて、現状変革の訴えを全社会的な運動へと変えていく》という積極的な評価がくだされる。
むろん、作品の踏まえたカストロ政権によって反革命側に為された現実でのハバナの審問では、たとえ《真の革命たりえた》可能性の閃いた一瞬があるにしても、そのまま《大いなる対話》のモデルとなりうるような、暴力の介在しない自由で対等な会話がすでにそこに実現していたとはとても言えないだろう。ここは、ハーバーマスが一時期使用しながら手放した「理想的発話状況」概念と同様に、この審問での「対話」もまた実体的にではなく、現実にあっては歪んだ非対称の関係のなかで交わされているコミュニケーションであるにしても、ただしそれが成立している以上は、理念上「理想的発話状況」が先取りされているという、あくまでも「抗事実的」なものとして捉えるべきであるように考える。そしてこれはまた、《完成形に至ったことはなく、「実現を模索していくべき」もの》としての「公共性」にも妥当するだろうし、さらには本書の底流で希求されている「普遍的価値」をもまたそのように所与ではなくこれから形成、獲得されるべき性格であり、いわばその予感が語られうる、と捉えられるのではないか。
重要な指摘が多々見られる各章個別の議論にはここではまったく立ち入れないが、それぞれのテクストに丁寧に沈潜しつつ、思想が立ち上がってくるテクスト外の現場にくり返したち戻った記述は説得的かつ啓発的だ。本書がさらなる「討議」を喚起するのを期待する。(はつみ・もとい=独文学)
★はしもと・ひろき=九州大学助教・現代ドイツ文学・思想。主要論文に「アドルノにおけるハイネ講演、あるいは文化批判と社会」(日本独文学会機関誌『ドイツ文学』第156号、ドイツ語学文学振興会奨励賞受賞)。一九九二年生。
書籍
書籍名 | 戦後ドイツと知識人 |
ISBN13 | 9784409031360 |
ISBN10 | 4409031368 |