2025/09/12号 6面

斜め論

著者インタビュー=松本卓也『斜め論』
著者インタビュー! 松本拓也  精神病理学者の松本卓也さんが『斜め論 空間の病理学』(筑摩書房)を上梓した。本書では、現代の臨床や社会が、高さや深さを目指す「垂直」から、他者との日常的な繫がりを重視する「水平」へと軸足を移しつつあると分析され、「斜め」の重要性が説かれる。出版を機に、お話を伺った。(編集部)  ――本書で言われる「斜め」は、孤立した主観が「自分は神である」などと病的に思い上がるような垂直のベクトルと、他者や具体的な事物を気遣うこととしての水平のベクトルとで構成されます。このイメージは、どこに由来していますか。  松本 唐突な話から始めますが、私は高知の田舎の生まれなんです。広大に広がる平野、あるいは桂浜のような水平線、そして宿毛の地の一面の田んぼ。何も新しいことが起こらない水平に広がった世界。こうした場所で幼少期を過ごしました。これが〈水平〉イメージの原風景ですね。  それに対して、長ずるに従い興味を持ち始めたのが、ハイデガーでした。彼の「世人」論は、水平的なところでみんなと一緒になって生きる地獄を批判するようなものです。彼は、人間(現存在)は「死に向かう存在」だと言い、自己を深く見つめ本来的な自分へと飛び上がる哲学を論じた。これが私の読書体験の始まりでした。  また、高校生の時ラカンに出会った。最初はぜんぜん意味の分からないことが書かれてあると思いましたが、同時に、彼は何か本質を摑んでいるという感じがありました。この時から私はずっとラカニアンです。彼のことをより深く知りたくてあれこれ探して読んでいると、雑誌『現代思想』(青土社)にラカンの特集号があるのを見つけます。1981年7月の刊行です。でも、私は高校生でラカンを読むくらいだから、当然思い上がりも甚だしかった。「俺の方がラカンを読めてる」くらいのことを考えるわけです(笑)。  しかし、その特集号に「一人だけ読むべきことを書いているやつがいるぞ」と思いました。浅田彰です。後に『構造と力』(勁草書房)に収録される論考「ラカン 構造主義のリミットとして」でした。もちろんその議論の意味を理解するのは後になってのことですが、そこでラカンは、〈垂直〉の力の思想家として登場します。浅田さんの言葉で言えば「パラノ」の体制のリミットを体現する思想家です。そしてその力からどう逃走するか、ということが問題になっている。しかし私はラカニアンなので、浅田さんの議論とは対照的に、むしろ垂直の方向を極めなければならない、と最初は思っていたんです。ハイデガーは「存在」、ラカンは「真理」や「去勢」。それぞれの仕方で垂直を志向し、私はそれにどっぷり浸かっていました。  ――何をきっかけに水平志向に?  松本 実はあまり定かではないのです。私は同世代の中で浮いた存在でした。なにしろ音楽からして70年代のプログレッシヴ・ロックしか聴かないものですから。尖っていた。鋭いことがいいことだと思っていたわけです。ですが、最近は角が取れて丸くなってきました。ひょっとすると年齢の問題かもしれません(笑)。でも、それだけではありません。  2010年代から私は、よくデモに参加するようになりました。20代後半です。反ヘイトスピーチや反原発のデモに赴く。そしてちょっと嫌な気持ちになって帰る。警察や機動隊に嫌がらせされる上、基本的には負けて帰るからです。そうでなくとも、ヘイトなどの悪意を目の当たりにするだけで結構疲弊する。この時にどうするか。知り合ったみんなとビールなどを飲んで帰るのです。この頃、そういう横のつながりがもつ力に救われるようになってきていたんですね。  それから2013年、新大久保でヘイトスピーチのカウンターをかけたときに、若手研究者たちが集まったことがありました。齋藤幸平、山本圭、明戸隆浩、隅田総一郎といった人たちです。彼らとも繫がりができた。負けたときに支えてくれる、同類がいるという感覚を抱いたのです。今から振り返ると、そういう経験が大きかったと思います。  あるいは先述の浅田彰。彼が京都大学に入ったのは、大学闘争が燃え上がり、そして敗北していく時代でした。それを受けて浅田さんは、「千の否のあと大学の可能性を問う」と書いたわけです。つまり『構造と力』という本は、闘争の敗北でいろんなことが不可能になった大学でどう振る舞うか、という話をしている。こうした歴史や思想が、私自身のデモ経験と結びついて〈水平〉の形をとるようになったのです。  ――本書では、「まずは水平、それからちょっと垂直」という順番で寛解が進むとされます。なぜこの順番なのですか。  松本 精神疾患の治療というものが、そもそも「負けた後」の事柄だからです。本書でも述べたとおり、「斜め」というのは弁証法の過程です。つまり、水平にしたら水平のネガティブなところが出てくるから、縦にする必要がある。すると今度は突出するものがあるから、また水平にしなければならない、という形のプロセス。終わりがない作業なんです。  しかし、こうした過程に入る端緒は、「思い上がり」としての垂直的な発病にあります。そしてそれが挫折して墜落する。治療はこの敗北からスタートします。これはとりわけ統合失調症の発病において顕著ですが、政治運動でも様々な意味で敗北した後のことが重要です。上へ上りすぎて墜落した人をひとまず横に開いていくことから、回復のプロセスは始まる。「水平」には、垂直の方向に頑張って傷ついたものを癒す力があるんですね。そのためこの本は、まず水平の力を評価するところから始まるのです。思い返せば、高知の田舎に生まれた私も、水平から始まっていると言えますね(笑)。  ――水平のあり方には人を癒す力がある。一方で、ずっと横でいると弊害も出てくると仰いました。害と癒しが両立するのは不思議なことです。  松本 所謂「サードプレイス」がありますよね。「学校以外の居場所」のような。私はそうした場所になんとなく違和感を抱いてきました。私はどうにも集団に馴染めないんです。尖っていましたから(笑)。ある場所が居場所になってそこに安住してしまうと、今度はその場所に支配される感じがするんです。ラカンの言う「鏡像段階」論がそうでしょう。自分のイメージを鏡から与えられた子どもは、一瞬喜ぶけれど、その感情はすぐに疎外感に反転する。  これは、同じくラカンにおける想像界の問題でもあります。彼は、動物の想像界はちゃんと機能していると論じます。サバクトビバッタは他の個体を通じて自分の振る舞い方を知り、それを疑わない。あるいは、孔雀のオスが羽を広げて求愛行動をとると、必ず性交が成立します。自分自身の存在を支える機能を、想像界がきちんと果たしてくれるのです。ですが、人間の想像界は常に失敗します。「みんなと一緒」になることが、人間の平準化という居心地悪さに帰結することもある。求愛行動においても、相手に自分の性的価値を露骨に示そうとすると、逆にドン引きされかねません。そして攻撃性が展開され、悲惨な結末に逢着する。  想像界には両極端な可能性があるわけです。しかしハイデガーは、後者のことしか論じません。そして私もラカン/ハイデガー的にものを見ていました。本当なら生存を可能にしてくれるサードプレイス的な場所からエスケープしてきた。それが、今はだんだん角が取れてきて、水平的なものの肯定的な機能に気付いてきたというわけです。でも、やはりそこに埋没したくはない。ゆえに、「斜め」が重要なんですね。  ――最後に今後のご活動について教えてください。  松本 月並ですが、改めてラカンと精神分析を研究したいと思っています。ラカンを扱ったデビュー作『人はみな妄想する』(青土社)の増補新版が9月末に出版されますし、岩波新書でも近々ラカンに関する本を刊行する予定です。また、フランスで1年間在外研究をすることになりました。これを機に一から修行し直そうかなと考えています。(おわり)  ★まつもと・たくや=京都大学大学院准教授・精神病理学。著書に『人はみな妄想する』、共編著に『コモンの「自治」論』など。一九八三年生。

書籍

書籍名 斜め論
ISBN13 9784480843333
ISBN10 4480843337