2025/06/13号 8面

新訳 金瓶梅

『新訳 金瓶梅』(全三巻・鳥影社)完結を機に 対談=渡部直己・田中智行
現代に甦る中国古典『金瓶梅』 ―『新訳 金瓶梅』(全三巻・鳥影社)完結を機に 対談=渡部直己・田中智行  『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』と並び〝中国四大奇書〟の一つと称される『金瓶梅』の新訳が完結した(田中智行訳『新訳金瓶梅 上・中・下』(鳥影社)。作家・魯迅は「同時代の小説に、これを越えるものはない」と評した。今回は原典の〈完訳〉であり、最新の研究に基づく詳細な訳注を付す。田中智行氏(大阪大学教授)と文芸評論家の渡部直己氏に対談をしてもらった。日本の小説批評の起源を中国の白話(口語)小説とその批評に求めた渡部氏は、今年一月、前著に続き『『水滸伝』と金聖嘆』(読書人)を上梓し、田中氏の訳業にも注目を寄せている。(編集部)  渡部 わたしは近著の最終章で『金瓶梅』を扱ったさい、田中さんの新訳に大変お世話になりました。詳細な訳注もふくめ、この訳本には感服しましたが、そもそもなぜ『金瓶梅』を研究しようと思われたのですか?  田中 「解説」で書いたことと重複しますが、元々中学校の頃から『西遊記』が大好きで、白話小説を楽しんで読んでいました。高校になって『金瓶梅』も読むようになったんですが、その時は小説を純粋に楽しむというよりも、勉強のためという要素が強かったと思います。『西遊記』研究で有名な中野美代子先生が『悪魔のいない文学』の中で『金瓶梅』についても触れられていて、それで興味を持ち、高校の図書館で借りて読みました。平凡社『中国古典文学大系』に収録された小野忍・千田九一訳です。  渡部 僕も小野・千田訳ですが、相当違いますよね。小野・千田訳は原文をかなり省略していたり、際どい描写を柔らかくしたり、語彙も変えている。たとえば、小野・千田訳で、「あの人が出たらめをいったら」黙っていないと訳された女性の台詞が、こちらでは「あいつが臭い屁でも垂れたら」になっている。あれは原書に近いわけですか。  田中 慣用表現ですが、だいたい直訳です。  渡部 新訳を読んでまず驚いたのは、そんな野卑でスカトロジックな罵語を、女性たちが平然と口にしていることでした。それで、小野訳とは小説自体の印象がかなり変わる。そこをきちんと訳されたのは、ひとつのお手柄だと思いました。  田中 『金瓶梅』は登場人物三人の名前(潘金蓮・李瓶児・春梅)から一字ずつ取って付けられていますが、春梅は激昂すると同じ罵り言葉を繰り返し使ったりします。登場人物の性格付けをするために、罵語が使われたりしている。そうした点だけ見ても、表現の工夫が凝らされていると思います。  渡部 その工夫は、早い時期からお気づきでしたか?  田中 正直、高校の頃にはきちんと理解することができませんでした。大学入学後もあまり馴染むことができず、結局は大学院を受ける時に、デイヴィッド・ロイの英訳本を読んだことが大きかったと思います。原文を英訳と一緒に読んでみると、文章がとても魅力的に感じられたんですね。何とも言えないユーモアがあった。これだけ面白いということは、原作に何かあるんだろうと思い、じっくり考えてみたいと思ったわけです。  渡部 白話小説の中で『金瓶梅』を特に面白いと思われた理由は何でした?  田中 ひとつには、つまらない人物が、とても面白く書かれているということでしょうか。英訳と照らし合わせて読んだ時のことを今思い出したんですが、たとえば西門慶の義兄弟である応伯爵が、自分たちに隠して李瓶児との縁談を進めようとした西門慶に、友人づきあいの大切さを説く場面があります。  そこで「同じ日に生まれたかったとは思わないが、死ぬのだけは別々に願います」と言う(笑)。もちろん『三国志演義』のパロディですが、そういうユーモアが中国古典にあるとは思っていなかったので、これは傑作だと思いました。実は小野・千田訳だと、その箇所は原文が間違ってるという理解をしています。「同じ日に死にたい」という方向で訳している。この部分は中国でも説が分かれていますが、私自身はユーモア説に強く魅かれました。  もうひとつは、作者が何を言いたいのか、その尻尾をなかなか摑ませないところです。これも一例を挙げます。第三九回、前半では道教の儀式が行われ、後半は尼僧が仏教系の語り物をずっと語っていく。読んでいると、仏教的な教義を作者も信奉してるんだろうと思わされる。けれども最後に、こういう説教は尼さんの飯のタネに過ぎないと書いてあり、そこまで語られてきた前提をすべて崩してしまう。一体作者は何を考えてこんなことをやっているんだろうか。作中人物にこれだけ細かく語らせておきながら、実は全部ネガティブに捉えていた。そのことを最初から言わない。一回読者を仏教的な物語の中に巻き込んでおいて、最後に世迷言でしたと言う。その持っていき方がすごく新鮮で、興味を持ったんですね。  渡部 それまでの前提をすべてチャラにするというのは、読者と作者の関係をどう考えるかという問題に繫がりますね。これは、田中さんの論文(「『金瓶梅』の感情観」)で指摘されていたことですが、たとえば、A場面で、いまの説教なり、セックスシーンなり、ある出来事に熱中している人間の様を書く。それを読んだ読者は、作中人物の情熱に感染していく。しかし次にBの場所から、それを覗き見て冷笑したり嘲ったりする人物を書く。すると、読者はAの「気分」から離れる。そうした操作によって、読者に人間の愚かさを気づかせる。田中さんはそう指摘されていたわけですが、それはつまり、『金瓶梅』を一種の教訓小説として捉えるということですよね。馬琴のような勧善懲悪小説では、悪いことをした当人が、最後に直接懲らしめられるわけですが、こちらでは、そこが二段階の構造になっている。まず悪いことに夢中になっている者を一生懸命書く。つづいて、それを見ている傍観者を書く。そうすると一旦悪い方に感情移入した読者が、はっと我に返って距離を持つ、と。  田中 それは必ずしも新しい考え方ではなくて、むしろ古典批評の中で言われてきたことでもあります。たとえば清代の劉廷璣は、「淫によって淫を止める」、「迷いに引きこむことで迷いを破る」という言い方をしています。淫の部分と教訓的な部分とが渾然となっているとの理解です。近代に入ると、社会小説や写実小説であると論じる人たちは、淫なる部分を否定的に捉え、善い箇所と悪い箇所を切り分けする方向になります。さらに時代が進み、劉廷璣のような古典的解釈に近いロイやわたしなどの考え方がでてきた。そんなふうに整理できそうです。  渡部 「淫によって淫を止める」というのは、「善」の側からいうと、「善」を「遠ざけながら近づける」ということですよね。つまりは、間接化の逆説的効果。これはたとえば谷崎潤一郎のようなマゾヒストの得意技です。崇拝や拝跪といった距離を講じてわざと女を手元から遠ざけることによって、いっそう生々とその女性を貪る。『水滸伝』の焦点移動に鋭敏に反応した金聖嘆流にいえば、ある場面を当事者の視点から描くのではなく、第三者の視点を通して描くことで逆に臨場感を高めるという手法で、これはそのまま、漱石『文学論』中の「間隔論」を予告していたわけですが、ただ、その場合、読者の位置が微妙になります。ある場面に「感染」するという主観性より、むしろ、距離を作り出す機能性の問題ではありませんか? 「迷いに引きこむことで迷いを破る」といったところで、いくら熱心に描いても、それだけで、「引きこむ」ことが出来るとは限らないわけです。たとえば「美しい」女性の顔立ちを、目はこう鼻はこう、唇は……などと分解的に描けば描くほどその「美しさ」から遠ざかり、むしろ化け物じみてくるといった細密描写の逆説があります。この点、田中さんの考えとは異なってくるわけですが、ご指摘はすごく面白かった。  田中 距離の段階化と言ったらいいのでしょうか。第十九回と二十回が典型ですが、李瓶児に西門慶が問い詰める場面があります。次の場面になると、外からその様子をうかがおうとやきもきする女たちが描かれる。読者の視点では、クローズアップで描かれていた喧嘩の場面が、遠くから眺められていることになり、パッと視野が広がる感じがあって、非常に新鮮に受け止めることができる。先ほど申し上げた第三九回の宗教的テクストの引用法とも重なる手法だと思います。  渡部 そこまでは大変よくわかります。ただ、田中さんの書かれた論文を単純に受け取ると、『金瓶梅』が教訓小説になってしまう。その教訓の持たせ方が、二段階方式になっているというご指摘ですが、やや気になったのは、テクストの主目的が、読者に何かを伝える、あるいは教えるということになる。  田中 私の論文では、そういうことを言っていますね。  渡部 そこをどう考えるか。田中さんの立場は、『金瓶梅』は結果的に非常に倫理的な書物で、今までにない形でその倫理を伝えているという点が面白いということですね。「淫書」の見かけをもちながら、『金瓶梅』は非常に真面目な本だ。そこを擁護されているわけですね。  田中 少なくとも最初は、教訓小説として惹かれたのではありません。それこそ罵りあいであったり、セリフが溌剌としているとか、あるいは今渡部さんが言われたことも含めて、小説の手法自体の面白さに惹かれたんだと思います。  渡部 この作品では、新興ブルジョワ・西門慶一家を舞台に、セックスシーンや食事や妻妾たちが裁縫をしたりする場面などが、そのつど大変細かく描写されている。それを『金瓶梅』の「写実性」として語る人も多いわけですが、田中さんの着眼は、その描写の細かさが読者の「気分」を導いて、A場面に感染させる点ですよね。そこから、一編のひとつの新味として二段階の教訓性が生ずる、と。それが「手法自体の面白さ」に繫がるというお話だとおもいますが、それはつまり、『金瓶梅』を描写小説として読むか、物語として読むかということになりますね。訳書の「解説」で、パトリック・ハナンの分析について触れておられましたが、ハナンは「「プロット」を談じるのはほとんど不可能である」と言っていますね。  田中 人物描写に重点があるので、プロットは誰にも説明できない、と。  渡部 そうなると、やはり物語と描写の関係に帰着しますね。この作者は何かを描写するのではなく、描写そのものを目的化しているというのが、小著で触れたポイントでしたが、そうした作者は一方で、他の作品の出来事や挿話をさかんに借用する。このとき、描写の欲望と物語の借用性の関係はどうなっているか? これは、小著を読んでくださった田中さんから事前にいただいたメールで問われていたことです。的を射たご質問でしたので、この場でお答えしますが、描写と物語とは共存し難いというのがわたしの観点です。  物語が刻々と展開していくシステムと、物の様子を描く部分とは基本的に共存し難い。物語というのは基本的に加速状態で進んでいく。ところが描写はその流れを減速状態に導く。物を細かく描こうとしたら、その言葉が費やされているあいだ、物語のスピードは止まる。そんなふうに、描く部分と物語る部分は本性上の差異があって、いわば反比例的なバランスを持ち込みます。一方が増えれば他方は減る、と。ゆえに、物語を作り出す能力と、物を描く能力は別物であって、後者が好きな書き手は、つい物語を借用しがちになるのではと思います。  田中 そもそも『金瓶梅』は『水滸伝』から出発する話であって、その時点で借り物を使っているところはあります。また、ある人物を罪に落とすために企みをするとか、ガラッと局面を変える時、確かに『金瓶梅』は他の物語を借用する傾向があるかもしれないですね。  渡部 物語としては、西門慶が死んでから、出来事がバタバタと起こりますよね。登場人物たちの末路が矢継ぎ早に描かれる。すると描写がとたんに激減する。この次元にも最大の局面転換が現れるわけですが、この二つのバランス。この変化が、わたしには一番面白かった。  田中 確かに、終盤はすごい加速をしますね。第三九回から七八回までは一年間のことが丹念に描かれているのに、その後急に物語が加速する。そこはわかりやすいぐらいに、『水滸伝』や他の短篇小説などから借りてきた筋書きを使って、バタバタと組み合わせて終わる。  渡部 そのスカスカした感じも面白い。  田中 井波律子先生が『中国の五大小説』で『金瓶梅』のあらすじを紹介しているんです。西門慶が死んだ後を、非常に詳しく書かれている。あらすじにしやすいからだと思います。出来事が描いてあるので、誰が何をしたかを書けば話の内容が伝わる。ただ、それ以前は、話を整理して伝えることが難しい。要約が極めて困難なんです。要約した時点で、面白さが損なわれてしまう。だからこそ『金瓶梅』の場合、全訳以外ありえないと思ったんです。  渡部 まさに!全訳されたこと自体が素晴らしい。逆に言うと、全部訳さなければ意味がない。たとえば、潘金蓮をぶどう棚に逆さ吊りにして弄ぶ有名なシーンが、小野訳では、田中訳の六十行分が省略されていますが、それだと「描写小説」としての『金瓶梅』の魅力が骨抜きになってしまう。あそこでは、性愛のやみがたさと描写の止めがたさが連動しているわけなので。  そもそも描写への欲望は、欲望の本性上それ自体のうちにブレーキをもっていない。資本も性欲もそうですね。ひとたび動き出したら歯止めがきかない。女色や食事を貪るや西門慶のやみがたさは、描写量の増殖と親和的になる。それゆえ、この人物が死ぬと、テクストを主導してきたこのバランスが一気に崩れるわけです。このメリハリが見事なのですが、あえていえば、描写への欲望が、西門慶という人物を作り出しているとみることができる。叙述自体がドラマを作る。たとえば、古井由吉『杳子』のヒロインが細密描写を被るにつれて統覚を失い、カフカ『流刑地』の処刑機械の分解描写が、機械自体をバラバラに壊してしまうといったことになるのですが、『金瓶梅』もそれに似たところがあるわけです。  田中 描写にドラマがあるというのは、まさにその通りですね。濃密な描写で読者をじらしたりしている。また、古典批評家が喜びそうな仕掛けがいくつもなされているんですよね。現代的な観点からいっても、社会性と身体性を同じ一つの回の前半と後半でうまいこと対応させていたり、よく考えてみるとすごく面白い構成の仕方をしている。『金瓶梅』という小説には、今まで気づかれていなかった面白さがまだまだあると思います。  渡部 ところで、この作者は誰だと思いますか?  田中 よくわからないというのが正直なところです。小松謙先生が『水滸伝と金瓶梅の研究』で王世貞説を再検討されていますが、これは昔から言われている説でもあります。この説には後に尾鰭が付いて、近代的な『金瓶梅』研究は、その伝説的要素を否定するところからはじまっている。それゆえ王世貞説には厳しい批判がなされてきましたが、小松先生のように信頼できる資料によって論を立てていくならば、理のあることだと思います。  渡部 作者が誰かによって作品理解に影響を及ぼすこと自体は、どう思われますか?  田中 動かぬ証拠があるのならば、いろいろ考えることができるとは思います。けれども、そうではない。つまり作品から作者に接近していく仕方の場合、そのアプローチ自体が作者を決めてしまう。そこから新たに得られるものは原理的に少なくなります。作品論と作者論が切り分けられないわけですからね。  渡部 そういう意味では、『水滸伝』にたいする金聖嘆流にこの作品を批評した張竹坡の主張は、貴重ですね。作者が誰であろうと問題はない。誰が書いたかよりも、誰がどう読んでいるかがポイントなんだ、と。  田中 自分の『金瓶梅』を作る。張竹坡はそんな言い方をしますよね。人のために批評するのでもない。彼の場合、少なくとも自認としては小説家崩れで、どういうふうに書けばいい小説になるのか、自ら全部わかっていた。でも、実際にやってみたら書けなかった。けれども、わかっていたということは証明したい。そのために『金瓶梅』の読みどころを事細かく批評していった。  渡部 彼の姿勢は、批評と創作の関係を考える上で興味深い。『水滸伝』を精緻に分析した金聖嘆から、その影響を大きく受けながら『金瓶梅』の批評を試みた張竹坡。この系列はすごく面白い。  田中 金聖嘆の方が、言ってみれば、作者についてあまり考えない。「作者は死んだ」とまでは言いませんが、作者とテクストは別存在であると考える。張竹坡は、あくまでも作者が意図的に構築したものが作品であって、読者はそれを自分の文章、もっといえば自分が今から構想して書いていく文章のつもりで読むことで、初めて作者の意図を正しく理解できる。『金瓶梅』を読んだと言える。そんなことを言っています。  渡部 その張竹坡が欄外や本文脇に付けた評言(「眉批・旁批」)まで翻訳してもらったのは、批評家として非常にありがたかった。現在刊行中の小松謙さんの『詳注全訳水滸伝』も同様です。  田中 私が訳したのは決して網羅的ではないんですが、本文だけからでは気づきにくい読みどころを指摘している箇所と、あとは自分で面白いと思った箇所は訳しています。  渡部 本文中の注目箇所に圏点を打って、その箇所に、あたかも映画のオーディオコメンタリーのように「批」=「評」を割り入れるのは、まさに「批評」のルーツではないか。金聖嘆にしても張竹坡にしても、一七世紀にそれをやった。しかも、方法的にはロシア・フォルマリズムそっくり。この点は、中国人はもっと誇っていい(笑)。お二人の仕事から、僕はそのことを教えてもらったわけです。  田中 ありがとうございます。今回の新訳には、ここ数十年で大きく進んだ『金瓶梅』研究の成果を盛り込み、細かなニュアンスにまでこだわって、読みやすい訳文となるよう心がけました。こんな作品だったのかと驚いていただければ嬉しいです。        (おわり) 〔注〕本対談中「金聖嘆」と表記しているが、自身では「金聖歎」と署名していた。現在では両表記使われているが、渡部氏の著作に合わせて「金聖嘆」表記とした。        〔編集部〕  ★わたなべ・なおみ=文芸評論家。著書に『谷崎潤一郎論』『日本小説批評の起源』など。一九五二年生。  ★たなか・ともゆき=大阪大学教授・中国古典文学。共著に『とびらをあける中国文学』など。一九七七年生。

書籍

書籍名 新訳 金瓶梅
ISBN13 9784862659187
ISBN10 4862659187