評伝 中勘助 上・下
高瀬 正仁著
中島 国彦
大学一年生の時一九六五年一月、七十九歳の中勘助が多年の文学的業績によって「朝日賞」を受賞したことを知り、図書館で刊行中の角川書店版『中勘助全集』を手にして、その静かに流れるような世界の一端を味わった。まだ、岩波文庫『銀の匙』しか読んでいなかった時である。しばらくして、岩波書店はきちんとした全集を出すべきであるという声が高まったが、それが実現したのは遥か後、一九八九年である。勘助の年譜の空白も埋められ、複雑な作品の形成過程も明らかになった。が、それは必ずしもその文学の内実を明らかにする方向に進まない。中勘助といえば、「純粋」「孤高」「静謐」と評されるが、それだけではその固有の文学性の説明にならない。『銀の匙』一作の魅力を最大限説く試みは貴重だが、いつか誰かが文献を詳細に吟味し、中勘助の全体像を浮かび上がらせるという難題に挑戦してほしいと思っていた。
高木貞治や岡潔という数学者の評伝を書いてきた科学史が専門の著者が、上下で九百ページ近い紙幅で、文学者中勘助の世界を明らかにしたのは、うれしいの一言に尽きる。巻末の「エピローグ」によれば、高校二年生の時に『銀の匙』を読み、東京の大学に入った一九七〇年にご遺族の家を訪ね、それから折に触れ世話になったという。まさに、この評伝を書く運命が決定されたわけだ。著者は、例えば『銀の匙』の作品内部に、注釈的に入り込むことはしない。作品の素材がどういう背景、どういう時間の流れの中から醸成されたのかに眼を注ぐ。そのためにとったのが、中勘助を取り巻く青春群像を詳細に描くことから、その文学的出発を明らかにする、という方法である。時代全体がそこから見えてくる。幸い、勘助を取り巻く人物との手紙のやりとりも存在する。勘助の周辺の人物の経歴がわかれば、勘助との差異がはっきりするはずだ。この判断は、見事に成功している。
本書を読みながらわたくしが想起したのは、伊藤整がライフワーク『日本文壇史』で試みた、人間と時代を描く筆致である。単なる事実の叙述ではなく、人間と人間の出会い、確執のドラマがそこにある。藤村操の投身自殺が哲学的煩悶ではなく、失恋が隠されていたことを早い時期に資料を踏まえて指摘したのは、伊藤整だった。高瀬氏が本書で、藤村操という青年を軸に、周囲の反応を詳細に描き出したのは、うれしい。勘助がそれにどう反応したかの詳細はわからないが、当時の若者の動揺を確かめることは、口をつぐむ勘助の立ち位置をうかがわせる。夏目漱石や漱石周辺の人たち、阿部次郎、安倍能成、魚住折蘆、岩波茂雄らの動向が、当時の第一高等学校、東京帝国大学の学校制度を示す資料を踏まえた紹介を背景に、浮かび上がる。
勘助の家系の側面では、医者となった十四歳年上の兄の中金一の歩みが明らかになったことが貴重である。心情的な微妙な関係、昭和十七年秋の勘助の島田和との結婚式の日に自殺した兄の存在が、詳しく語られる。それ以上に本書の白眉は、大阪出身の二歳年長の山田又吉との交友が詳細に記されていることである。拠り所になった『山田又吉遺稿』は、入手しにくく、国立国会図書館か日本近代文学館に行かないと閲読できないが、勘助宛の一八三通もの手紙は、その一部が引用されており、その又吉の真摯な姿勢が眩しい、青春の息吹を伝えている。生涯この友人を意識し文章に記した勘助だが、山田を語りながら自分を語っているのだ、とするところなど、著者の思いが込められている。
小日向水道町の中家の二階が一高仲間の集う場所であったことも跡づけられており、『銀の匙』が執筆された野尻湖が、煩悶を抱えた当時の若者たちが密かに滞在する精神の避難所であったこと、そうした記念すべきトポスでもあったことも紹介され納得がいく。もう一人の重要人物である友人江木定男との交友、その妹妙子との関係など、詳細な追跡でそれが勘助の生涯の原点でもあったことを著者は指摘する。また平塚の住まいのお手伝いだった中島まんからの聞き書きなど、貴重な資料も多い。
勘助は、自分の体験をあからさまに書かなかった。回想風のエッセイは多いが、それを伝記の素材とするのには注意が必要だ。勘助の伝える師漱石の言葉も、扱いが難しい。記憶のモザイクであり、夢の万華鏡でもあった中勘助の文学の内実は、この労作を里程標に、まだまだ探索の対象であるように思う。固有名詞に若干誤記があるのは残念だが、労作の刊行を喜びたい。(なかじま・くにひこ=早稲田大学名誉教授・近代日本文学)
★たかせ・まさひと=数学者、数学史家。元・九州大学基幹教育院教授・多変数関数論・近代数学史。著書に『高木貞治とその時代』『評伝 岡潔』『岡潔とその時代』『人物で語る数学入門』、訳書にガウス『ガウス整数論』、オイラー『無限解析序説』など。一九五一年生。
書籍
| 書籍名 | 評伝 中勘助 上・下 |
| ISBN13 | 9784866241142 |
| ISBN10 | 4866241144 |
