なぜ書くのか
タナハシ・コーツ著
細田 和江
本書はアフリカ系アメリカ人のジャーナリスト・作家であるタナハシ・コーツによるエッセー、原題はThe Messageといたってシンプルで、訳者はタナハシ・コーツの紹介・翻訳に努めてきた池田年穂氏による。その邦題の意図は訳者自身による解説がある。
構成は全四章で、第一章「ジャーナリズムは贅沢品ではない」、第二章「ファラオについて~セネガルを歩く」、第三章「燃える十字架を掲げて~サウス・カロライナ州を歩く」、第四章「巨大な夢~パレスチナを歩く」。第一章は第二章以降を踏まえた前書きの体裁をとり、第二章以降は旅と思索が重なる。その思索はときに広がり、ときに深まる。旅の風情を語るわけではなく、さまざまな書物を渉猟し、しばし沈思拡索する。時空や歴史を超えて彼の思考・思索は縦横に広がりその内奥に迫る。実際の旅順は章順と同じで、セネガル、米国南部、パレスチナ(ガザ戦争前夜!)なのであるが、ボリュームのおよそ半分ほどを占めるのが第四章であり、きわめて同時代性の強いパレスチナについての言及がこの書の中心でもある。この書における著者の思索は時間軸、空間軸をまさに自由に縦横しつつ(シェイクスピアとラッパーを並べ考察するように)、たえず内省的に自らのルーツやそれと共鳴する歴史/物語や人々が生きることに思いを巡らせる。また、原注がないのも特色だろう。多くの書物からの引用や著者・作品名、NBA選手への言及があるにも関わらずその注や解説はない。インターネット検索すればたちまち膨大な情報にアクセス可能な現代における、ひとつの書物のかたちとしてあってよい。学術書ではなく旅と思索の紀行文エッセーであるのだから。
とはいえ、彼の語りは深く重い歴史と現代社会を背負ったものだ。旅をするのは虐げられた/ていることを正当化された歴史をもつ地域ばかり。その名「タナハシ」に古代エジプト語で「ヌビア王国」の名を刻まれた著者は、自己のルーツであるアフリカでその思索を巡らし「新しい視線」を獲得する。一方、奴隷貿易の対岸である米国南部では、歴史の呪縛によって「黒人」がもつアメリカ的な「目」を意識せざるを得ない。セネガルでは「混血」と見られ米国南部では「黒人」と見られる自己について考えるとき、「見る/見られる」側の「権力」関係がしばしば内面化されることに戸惑いを感じ、思索を巡らす。セネガルの人の美しさを目にし魅了されたとき、アフリカ系アメリカ人の美意識が白人社会の美意識の影響から逃れえないことを『青い目がほしい』を引き合いに出して語らざるを得なくなる。その「目」に対する意識を顕なものとしたままパレスチナを訪れ、「見る」側、「語る」側、そして「力」の絶対的格差に対して「ペン」で抗おう、闘おうとする。彼は支配者側、記述する側の「リデンプション」の歴史/物語に異議を唱え、生きる人々が正当な権利を取り戻す「レパレイション」の歴史/物語であらねばならないと考えている。彼にとって「書くこと」とは「目」と「声」と「力」を取り戻す闘いである。
終章では、イスラエルのパレスチナ占領政策を、アメリカでの人種政策や南アフリカの隔離政策「アパルトヘイト」に準え、断罪する。当然「反ユダヤ」と非難されうる批判を覚悟してイスラエルの「力」や「語り」が欺瞞に満ちていることを証言するだけでなく、同情する西欧の「目」・「語り」さえも批判する。当事者であるパレスチナ人の「目」から見た「語り」こそ私たちが「耳」を傾けなければならないのだと。
出版社のホームページには著者によるエッセー「ナクバ(大災厄)についてのノート」や訳者による本書解説があり、巻末の「訳者あとがき」とともにぜひとも本書とともに読まれたい。先述の通り、この書は読むことをきっかけに(著者がそうしたように)世界を拡げ思索を深めるためのものである。そして本文自体は自由に読むことを勧めたい。どこから読みはじめてもよいし、著者の思索の流れを断たずに追体験する読み方もスリリングだし、一方、固有名や引用について検索したり他の書物を手にとったりするなかで深く思いを廻らせしばし中断しながら読みすすめるのも、まさに読書の愉楽と言えるだろう。(池田年穂訳)(ほそだ・かずえ=東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所フェロー・イスラエル/パレスチナの文化研究)
★タナハシ・コーツ=アフリカ系アメリカ人作家。ハワード大学教授。『ブラックパンサー』などマーベル・コミックスの原作も手がける。著書に『世界と僕のあいだに』(『美しき闘争』『僕の大統領は黒人だった』など。一九七五年、メリーランド州ボルチモア市で生まれる。
書籍
書籍名 | なぜ書くのか |
ISBN13 | 9784766430400 |
ISBN10 | 4766430409 |