2025/11/21号 5面

「重要なのは自らの映像を見出すこと」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)415(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 415 重要なのは自らの映像を見出すこと  HK デュラスの映画においては、通常の映画においてあるべきとされる映像がないことで、逆に想像力が搔き立てられることになります。『愛人』のように、テキストで語られている内容を、わざわざ親切に映像として見せられると非常に退屈します。  JD 映画というもの全般に関して、説明調の映像が必要以上に多いということには同意します。出来の悪い映画は、言葉が語っている内容をわざわざ映像でも見せ、それぞれを補完し合うだけである、つまり二度同じことを説明しているのです。実に面白くない。テレビのニュース番組の如く、情報を伝えているだけです。しかし、真の映画作家の映画においては、映像と台詞、つまり映像と音は、それぞれを補完するだけでなく、時には反発し合い、まったく別のものを生み出しているのです。エイゼンシュテインの映像のようにして、映像と音の間にもモンタージュが存在します。それはゴダールの映画でも、ルノワールの映画でも、ホークスの映画でも同様です。映像と音は、つまり三次元の空間と音は、まったく別の次元を生み出すことがあるのです。そこにこそ、真の意味において、面白い映画が見出されます。  HK ジル・ドゥルーズが〈時間〉と呼んでいたものと同一視できるのではないでしょうか。つまり、断絶やズレによってこそ成り立つ映画がある。ヌーヴェルヴァーグ以降の映画は、そうした作りになっています。  JD ある種の映画は、断絶によって成り立っています。それはゴダールなどの映画の場合です。しかし映画は、必ずしもそうした作りをしているだけではありません。ドゥルーズは哲学者であり、映画の専門家ではありません。彼の言うことが、映画に関する全てではない。私の意見では、ドゥルーズの見方には映画を締め付けるようなところがあります……。つまり、多くの映画史家のようにして、様々な面で決めつけをしてしまっているのです。ヌーヴェルヴァーグ以降の映画がどうなっているか、あるいは、それ以前の映画がどうなっているか等々、細かな定義をしている。哲学を行う上で、そうした細かな定義は重要です。しかし映画は、定義によってのみでは語れないのです。当然ながら、哲学を行うことはできます。しかし、映画作家や映画批評というのは……。  HK ドゥルーズ自身も、自身の仕事に関して、「映画のイメージを分類すること」だと言っていました。  JD 彼は、自身の仕事についてよくわかっている。それとは異なり、私たち映画批評家の仕事とは、作品の魅力を感じて引き出すことです。そして、ひとりの映画作家の演出について語ることでもあります。  HK ヌーヴェルヴァーグ以降の映画においても、断絶などに基づかない古典的な映画が重要な地位を占めていると考えていますか?  JD はい。その点においては、重要な映画作家はいます。しかし、すべての映画ではありません。今日においても、マイケル・マンはとても重要な映画作家です。彼の映画は、アメリカ映画の伝統を正統に引き継いでいます。彼以前にも、ロバート・アルドリッチなどがいました。ミロス・フォアマンやロマン・ポランスキー、ポール・ヴァーホーヴェンなども古典的な映画を作っていると言えます。彼らの映画は、ゴダールやデュラスのものとは異なります。偉大な映画作家たちは、それぞれの方法において、自分の映画を作り上げているのです。本当に重要なのは、自らの映画を見出すことであって、ドゥルーズの言うような、ある時代のある映像を生み出すことではありません。彼は哲学者ですから、映画の歴史に対して弁証法的な見方をしたのだと思います。しかし、実際の映画史はもっと複雑です。ゴダールと同時代には、ロメールがいました。シャブロルやトリュフォーといった古典的な映画を作る映画作家もいました。それぞれが同じくらい才能に溢れた映画作家であり、彼らにしか作れない映画を作り上げることに成功しています。そうした意味において、ヌーヴェルヴァーグの映画作家は、皆が偉大な映画作家としてルノワールやロッセリーニと肩を並べることに成功しています。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)