文化系のための野球入門
中野 慧著
井上 裕太
2024年シーズン、大谷翔平はMLB史上初となるシーズン50本塁打・50盗塁の「50-50」を達成し、その快挙はメディアでも大きく報じられた。彼は、結婚や第一子誕生といったプライベートな出来事までも大きく取り上げられるほど、その一挙手一投足が注目される存在である。もともと野球観戦が好きな評者は、こうした報じられ方を自然と受け入れ、むしろ第一線で活躍するその姿を、日本人として誇らしくさえ感じていた。しかし、本書の冒頭に登場する「大谷ハラスメント」という用語にハッとさせられた。これは、無条件に大谷を称賛するニュースが溢れる現状を、皮肉を込めて表現した言葉である。日本のメディアは、大谷がまるで全米で絶大な人気を誇っているかのように報じているが、実際には人気があるのは一部の野球ファンの間であり、野球に興味のない大多数の米国人にとっての知名度はそれほど高くはない、という話も耳にしたことがある。大衆は必ずしも野球に熱中している人々ばかりではない、という視点の重要性を、冒頭いきなり、「大谷ハラスメント」という言葉を通じて痛感させられた。
本書では、そうした大衆と野球の関わりの歴史を、多角的に掘り起こしており、野球文化の在り様について、従来の〈文化系〉〈体育会系〉といった分類を超え、より広い視野から野球と社会の関係性を捉え直そうとする論が展開されている。一般的な類書では、順序立てて、例えば時代順、地域別に解き明かし、最後にまとめとしてそれらを一般化(理論化)する手順が取られてきた。しかし、本書ではそうした前例に囚われていない。神宮再開発の話があったかと思えば、英国・米国における野球の起源、19世紀末の一高野球部、天狗倶楽部、女子野球など、多彩な話題が散りばめられ、古今東西のキーワードが縦横無尽に掘り下げられている。さらに、一見野球とは無関係に見えるAKB48や、華厳の滝から身を投げた藤村操といった話題も登場するが、それらは章のテーマに沿って的確に組み込まれており、野球に詳しくない読者でも自然と引き込まれる構成となっている。それらが本書の主題と結びつく瞬間、点と点が線となって繫がるような快感があり、読後に深い納得をもたらす。それでいて決して散漫にはならず、一貫したテーマとして「野球文化の見通しを示す」ことが掲げられており、その論の運び方には構造主義的な視点が垣間見られる点も本書の特徴である。
なかでも評者が特に注目したのは、一高野球部と天狗倶楽部の対比である。天狗倶楽部は、20世紀初頭に押川春浪らによって設立されたスポーツ社交団体であり、勝利至上主義を掲げる一高野球部とは異なり、享楽主義的で、野球が上手ではない選手もプレーするなど、ユニバーサルスポーツとしての側面を有していた。天狗倶楽部を取り上げた研究はこれまでも存在したが、本書ではそれを一高野球部と比較することで、その特異性が一層際立っている。著者は「天狗倶楽部的な志向は後にプロ野球を生み出していくことになる」と述べており、消費される野球文化の原型の一つとして、天狗倶楽部を位置づけている。その視点には大いに啓発された。今日の米国では、「バナナボール」と呼ばれるエンタメ性を重視した独自ルールの野球が注目を集めている。ファウルボールを観客がキャッチすればアウト、バントしたら退場といった、常識を覆すルールが盛り込まれており、これは享楽主義を徹底した究極の野球と言えるかもしれない。こうした考え方の原型が、100年以上も前の日本ですでに萌芽していたことに、改めて気付かされた。本書にはそのような気付きが随所にあり、野球の本質と奥深さを再認識させてくれる一冊となっている。
現在、評者は野球の地域史を調査しており、研究に際しては、教育や行政、社会経済などの観点を取り入れた学際的な分析を心がけているが、本書を通じて、更なるダイナミックな視点からの研究の有用性を実感した。本書は、評者の研究は勿論、類似の研究にも十分援用し得る視点を示していると言えるだろう。新たな野球文化論を提示した快著である。(いのうえ・ゆうた=弘前学院大学講師・大衆文化史、博物館学)
★なかの・けい=編集者・ライター。批評誌「PLANETS」編集部、株式会社LIG広報を経て独立。構成を担当した本に『共感という病』『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』など。
書籍
書籍名 | 文化系のための野球入門 |
ISBN13 | 9784334105877 |
ISBN10 | 4334105874 |