2025/06/13号 4面

EU百科事典

EU百科事典 羽場 久美子・田中 素香・中西 優美子編 川成 洋  このほど、EUの誕生から現在に至るまでの多様な側面を一望できる百科事典が刊行された。本稿では政治、経済の歴史を中心にEUの歩みを辿ってみようと思う。  現在、ヨーロッパ27ヵ国(2020年1月、英国離脱)、5億800万人の人口を擁する欧州連合(EU)の公的な場で、青い長方形に12個の金色の星を環状に配置した旗を掲げ、ベートーヴェンの《第九交響曲》の第4楽章の前奏部をカラヤンが吹奏楽曲に編曲した歌詞なしの「ヨーロッパ讃歌」が奏でられる。このフリードリッヒ・フォン・シラーの詩「歓喜の歌」のメッセージは「すべて人間は兄弟になる」であり、それゆえ歌詞をつけないのは、「全世界に向けられたものだから」(249頁)である。  20世紀の欧州は2回の世界大戦の主戦場となり、第一次世界大戦は約1000万人もの戦死者を出し、敗北した4つの帝国(ドイツ、ロシア、ハプスブルク、オスマン)が消滅した。米国に対して莫大な戦時債務を抱えた戦勝国の英仏両国が主導した欧州戦後処理は極めて恣意的であった。誰もが切望していた平和で穏やかな欧州を現出するはずがなかった。ヒトラーの近隣諸国への野蛮な軍事侵略を阻止させるための、英、仏、伊、独のミュンヒェン会議(38年9月)は腰抜けの対独宥和会議に変貌し、翌年8月23日の世界を震撼させた独ソ不可侵条約は、ポーランド、フィンランド、バルト三国の領土分割範囲を明確にした付属秘密議定書付きであり、まさに第二次世界大戦の開戦予告であった。その1週間後の9月1日、南からポーランドを電撃攻撃したドイツ軍が第二次大戦の火蓋を切った。ついで17日、ソ連軍が東からポーランドに侵攻した。第二次大戦も、未曽有の大規模かつ残忍な戦闘を展開し、戦死者数は4000万に達した。45年5月7日のドイツの無条件降伏で欧州大戦が終結したが、既に国境は溶解し、45年3月、欧州各地を取材した『ニューヨーク・タイムズ』紙は、「前代未聞の暗黒大陸」と報じた。言わずもがな復讐と報復の大浪が欧州全体に流れ出し、史上類を見ない「民族浄化」、対敵協力者の大量粛清などが続発した。こうした悲惨な状況は40年代後半の冷戦開始とほとんど継ぎ目なく繫がっていた。  1947年、米国の欧州経済援助計画であるマーシャル・プランが発動され、「49年以降のマーシャル・プランをめぐり、東欧各国およびソ連は様々な自由主義的取り決めの中で排除された。東欧諸国は戦争の大きな被害を最も被ったにも関らず戦後復興に加われず、ソ連の影響下に入り」(3頁)、51年に終了した。  今日のEUの原点は、1950年5月9日に発表された「シューマン・プラン」であった。これは「独仏を含む欧州諸国が、石炭・鉄鋼産業の生産と分配を共同で管理すること。それを通じた欧州経済の復興を果たすことを目指していた」(47頁)。具体的には、独仏の和解を基盤として、実質的に戦争再発を不可能にする「不戦共同体」を構築する欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)構想であった。51年4月に仏、西独、伊、ベネルクス三国の6ヵ国がECSC条約に締結(翌年7月発効)した。57年3月に同じ原加盟6ヵ国が欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EURATOM)条約に調印(翌年1月発効)した。67年7月にこの3共同体を統一し、欧州共同体(EC)が誕生した(104~107頁)。  1980年代から90年代に、東欧・中欧の社会主義諸国のドミノ式の体制転換、東西ドイツの統一、ソ連崩壊などを受けて冷戦解消という新たな歴史的変革に対応するために、92年2月にマーストリヒト条約(EU条約)を締結(翌年11月発効)し、ECが政治共同体へと拡張し、欧州連合(EU)として新たに創設された(148頁)。  EUは、それまで6ヵ国の原加盟国の統合以降、6次に渡る拡大を重ね、現在27ヵ国になっている。EU条約に基づき長年の目標に取り掛かる。EU型の加盟国平等原則の通貨統合という世界史上前例のない大事業となる、単一通貨ユーロの導入であった。「1999年1月、ユーロが誕生する。これは銀行間の取引が中心であったが、2002年1月、ユーロが域内12ヵ国において現金として流通し、名実ともに欧州通貨統合が完成した」(119頁)。2023年時点のユーロ加盟国は20ヵ国である(120頁)。  それにしても現在のEU構成国内の看過できない事象としては、ポピュリズム勢力の台頭である。ポピュリズムは加盟国間の南北あるいは東西の格差、加盟国自体内部での所得格差などに対する反発から発生し(244頁)、2015年に中東などから欧州への大量難民の流入に対して反難民を掲げる運動からも発生した(586頁)。  さらに東欧諸国には、44年も続いた社会主義体制の残滓であろうか、政権維持のために報道の自由や司法権の独立に国権が介入するといったニュースを見聞することがある。  2022年2月のロシア軍の軍事侵攻による凄惨なウクライナ戦争が続き、ロシアと1300キロの国境線の防備を固めるためにフィンランドは、25年4月に対人地雷禁止条例(1999年発効)からの離脱を表明した。さらにポーランドとバルト三国も離脱手続きを開始した。この5ヵ国とも第二次大戦の開戦・緒戦期の悲劇を未だ忘れず、自衛の戦略を模索しているのだ。  余談になるが、英国のEU離脱は、Brexit(ブレグジット)という新語が生まれるほど、EUにとって初の深刻な加盟数の削減であった(222頁)。一昨年秋、私はロンドンに逗留した。あの1960年代から70年代後半までの沈鬱な「英国病」を思い出した。町全体が暗く、全く活気がないのだ。ファーストフード店にも客はまばら、閉店したパブも多いという。食事関係のインフレは驚くべきで、日本の4倍か。外国人の肉体労働者は帰国し、英国人がその穴を埋めている。最近の世論調査によると、60%余りの人が「ブレグジット」は間違いだと表明している。今後の英国はどうなるのであろうか。  2012年、EUがノーベル平和賞を受賞した。バローゾ委員長の推薦の辞は、「この賞はEUという組織にではなく、欧州の平和を実現してきた先達と5億人の構成員一人ひとりに与えられた賞である」と結んでいる(42頁)。全世界に向かって、なんと勇気と希望を与える辞ではあるまいか。確かに、EUは人類史上初のリベラルな国際秩序である。今後も様々な挑戦を受けるだろが、それでも人類未踏の地を突き進んでほしい。 最後になるが、激動の真っ只中でのEUに関する浩瀚な本書は、裨益すること大であると思う。(かわなり・よう=法政大学名誉教授・英文学)  ★はば・くみこ=青山学院大学名誉教授・国際政治学・国際関係学・EU地域研究。  ★たなか・そこう=東北大学名誉教授・国際金融論・経済統合論・ヨーロッパ経済論。  ★なかにし・ゆみこ=一橋大学教授・EU法・EU憲法。

書籍

書籍名 EU百科事典
ISBN13 9784621310250
ISBN10 4621310259