飯間浩明インタビュー
<日本語、ことばを面白がる>
『日本語どんぶらこ ことばは変わるよどこまでも』(毎日新聞出版)刊行を機に
今年も新年度、新入学の時期恒例の「優良辞典・事典あんない」をお届けします。
3月初旬に新刊『日本語どんぶらこ ことばは変わるよどこまでも』(毎日新聞出版)を刊行したばかりの国語辞典編纂者・飯間浩明さんに、本書にちなんだ日本語、ことばの面白さや、国語辞典にまつわるお話をうかがいました。 (編集部)
――このたびは新刊『日本語どんぶらこ ことばは変わるよどこまでも』の刊行、おめでとうございます。
飯間 ありがとうございます。本書は『毎日小学生新聞』で長く連載している「日本語どんぶらこ」の書籍化の第3弾ですが、連載を続けているからといって必ず本になるわけではないので、こうして3冊目まで出すことができて大変うれしく思っています。
――連載は2017年からですから、かれこれまる8年続けていらっしゃるわけですね。
飯間 そういうことになります。
この連載を最初に書籍化したときのタイトルは『日本語をつかまえろ!』(以下、『つかまえろ!』)でした。「日本語どんぶらこ」のままでは、連載を知らない読者に意味が伝わりそうにない。あれこれ考えて、辞書づくりをしている人をしばしば「ことばハンター」と呼ぶことから「つかまえろ」ということばを選びました。その2年後には続編の『日本語をもっとつかまえろ!』(以下、『もっとつかまえろ!』)を出すことができました。「もっと」というのは2弾目を表す副詞です。
3冊目となると、そろそろこの連載名を本のタイトルにしても違和感なく受け入れてもらえるだろうと思い、タイトルを一新して出すことにしました。
――では、このシリーズを知らない読者のために、内容をご紹介いただけますか?
飯間 本書『日本語どんぶらこ』のまえがきに「日本語のおもちゃ箱」と書きましたが、これが本シリーズを表すフレーズだと思います。「『日本語、ことばに関することなら、何でも考えてみよう』という姿勢で材料を集めました」とも書きましたが、日本語、ことばに関することを何でも説明しますではなく、何でも考えてみよう、と。ここがミソです。
ことばの話題というのは本当にバラエティに富んでいます。われわれが作っている『三省堂国語辞典』(以下、『三国』)には約8万のことばが載っています。小型の国語辞典でもそれだけのことばが収録されていて、『三国』ひとつとっても8万回ことばについて考えることができますし、それ以外にも、古典のことばやまだ辞書に載っていない新しいことばもありますから、ことばのことはいくらでも考えられます。あるいは、単語としてのことばのみならず、たとえば本書で扱った「読書感想文の書き方」、「人に嫌なことを言われたときの対処」といったことも含めて、ことばを考えることになるので、テーマは無限にあるといってもいいでしょうね。
私自身、日本語、ことばの話題に関して書きたいことがたくさんありますので、面白いことなら何でも書こう、と。そういった意味で「日本語のおもちゃ箱」のような本だということです。
――今回、タイトルを一新されたことで、内容に関して前の2冊と変更した点はありますか?
飯間 日本語、ことばのことなら何でも考えてみよう、という基本路線は同じですが、中心的に扱う話題は、それぞれの本ごとに変わっています。本書の場合、全4章立てにして、第1章「読書感想文で批判していい?」では、読書感想文に関わる話題を中心に、それ以外の話題にも触れています。つづく第2章「誤解された人の味方になろう」では、人に嫌だと言いたいときなど、コミュニケーションの考え方を書き、第3章「昔からの地名を残してほしい」では今と昔で地名がどのように変わっていくのかという話題を取り上げました。第4章「身の回りに流行語はあるか?」では新語や若い人たちのことばを中心に、ほかにも書きたかったことをすべて詰めこみました(笑)。
特に第1章と第2章は私が以前から書こうと思っていたテーマをやっと書けた、という感じです。「読書感想文」「嫌だと言いたいとき」は、本書の目玉に当たると言っていいでしょう。
――本書では小学生の読書感想文を想定して書かれていますが、文章の書き方の発想などを含め大人が読んでも面白いと思います。
飯間 誰しも、小学校で読書感想文を書かされて嫌な思いをした経験はあるのではないでしょうか。私も子どもの頃から本を読むのは好きでしたが、小学校の読書感想文の宿題はそんなに好きではありませんでした。今から考えると、小学校の読書感想文は「こう書かなければならない」という決まりがあり、自分が率直に思ったこと、感じたことを書くと叱られるから嫌だったのですね。私の場合、中学校に入ってから自由に読書感想文を書くことができたので、そこから好きになりました。
そもそも、読書感想文を書くのは楽しいことなんですよ。本好きな人はAmazonやブクログ内で競ってレビューを書いているじゃないですか。自分が感動したこと、よくないと思ったことを自由に書いて、それを人に伝えることは本来楽しいことです。それなのに、小学校の読書感想文では書いてはいけないことがたくさんあります。いつもいばっている大人を主人公の子どもがいたずらでやり込める作品があったとして、「大人を騙す場面を読んでざまあみろと思いました」と書くと「そんなことは書いてはいけません」と叱られる。そうやってみんな読書感想文を書くのが嫌いになってしまう。そこが一番の問題です。
たとえ過去の名作であっても、いま読むと「変だな」と思うところは出てきますよね。これは「読書感想文で批判していい?」の節で取り上げましたが、清水義範さんのユーモア小説『普及版世界文学全集』(集英社)では、作中に登場する大学生がシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」に対して〈かなり無理がある〉〈馬鹿な展開になる〉と痛烈に批判します。結婚が許されないのならば、あれこれ無茶をせずにふたりでさっさと逃げればいいじゃないか、といったことを大学生の意見として清水さんは書いているのですね。これと同じように、時代背景などを知らない子どもや学生が読んで、「なんてバカなことをやっているんだろう」と率直に思うことは十分あり得ます。
また、『もっとつかまえろ!』では夏目漱石の「坊っちゃん」について言及しています。「坊っちゃん」というと、向こう見ずな主人公の中学教師が赴任先の悪い上司らをこらしめる痛快な青春小説だと思う人が多いかもしれませんが、見方を変えると主人公の坊っちゃんは相当偏屈なキャラクターだと感じませんか。やけに小さいことにこだわるし、他人とのコミュニケーションもうまくとれない。たとえ周りが嫌な大人ばかりだったとしても、大らかに対処すれば、嫌がらせを受けなかったかもしれない。でも、主人公は結局暴力に訴えてしまう。普通に考えれば、こうした行動をとる教師は相当迷惑な存在です。加えて生徒のいたずらをうまくいなすこともできませんから、要するに坊っちゃんは教師には向いていない。そういうことを、率直に感想文に書いてもいいのです。
学校の読書感想文を書くということは、怒られないような文章を書くこととほとんどイコールなので、子どもたちにとってそのプレッシャーは相当なものがあると思います。それに、クラスの友だちと違うことを書くと、あとで読まれたときに笑われるかもしれないから、無難なことを書くようにしている、という話を若い人から聞いたことがあります。
さすがに、先生に怒られてもいいから正直に書きなさいとは私も言えませんので、まずは自分だけの読書メモをつくって、一行でもいいから率直に思ったことを書いておくことを提案しました。この読書メモを習慣にしておけば、いざ読書感想文を書くとなったときにきっと役に立ちます。
――率直な感想でいうと、「『わからない』も立派な感想」という節もありますよね。ここを読むと、本を読んでわからなかったことをむしろ大事にしてもらいたい、という飯間さんのメッセージがこめられている気がしました。
飯間 それは声を大にして言いたいです。本を読んで、その著者や作者の気持ちがすべてわかるわけではありません。それは、作者の考え方自体がわからないということもあれば、前提となる知識がなくてわからないということもあります。難しい哲学の本なんて、まさにそうですね。読んだ本を100%理解しないとその本を読んだことにならないかというと、決してそんなことはありません。たった数行でも心に響くものがあれば、その本はそれを読んだ人にとって大切なものだといえるのです。
――シリーズ3冊を通して、飯間さんは一貫して相手に自分のことばを伝えるにはどうしたらいいのか、ということを重視しているように見えました。そのあたりは意識的に書かれているのでしょうか?
飯間 ことばをどう伝えればいいか。これは私が子どもの頃から考えていたテーマです。私は、ことばを使って人とコミュニケーションをとることが昔から苦手で、ひとりでいる方が好きなのですが、この世の中で生きていく上では、ことばを使ったコミュニケーションがどうしても必要になります。ですから、上手に自分の気持ちを伝えるためにはどうしたらいいか常に悩んでいて、その悩みが元になり、このシリーズでたびたび紹介している言語生活、ことばで生きるといった話にまとまりました。
『つかまえろ!』の第4章に「楽しい形容詞はすくない!?」と「いやな気持ちを書いてみよう」という節があります。作文で「きのう遠足がありました。楽しかったです」としか書けない子どもがいます。すると、「もっと語彙を増やしなさい」と言われてしまうのですが、かといって「楽しい」に相当する別のことばはあまり見つからない。「楽しい」に似ている「うれしい」に置きかえるのも変ですよね。つまり、イベントの楽しさを表すことばは、「楽しい」くらいしかないのです。このように、ポジティブな気持ちを表すことばは少数で、言いかえようとしても、とりわけ子どもの語彙では限界があります。
反対にネガティブなことばというのは、いま自分がピンチの状況にあることを相手に訴えなければいけませんから、「おそろしい」「こわい」「寒い」「痛い」……といくらでも出てきます。楽しいときは、あえて伝える必要がないから、必然的に少なくなるということです。それならば、どうやって上手に楽しい思いを表現すればよいかということを紹介しました。
『もっとつかまえろ!』の第8章「みんなに優しいことば」では性の平等に関する話題を書きました。以前は「看護婦さん」と呼んでいたのを今は「看護師さん」と呼ぶようになったこと、あるいは、「男らしい」という言い方にも言及しました。日常会話で「君、男らしいね」と言われてどういう気持ちになるのか。このあたりも言語生活、ことばで生きるというテーマに関わってくるポイントです。
――飯間さんはことばハンターとして、ことばの変化を敏感にキャッチしていますが、同時に、変化することばに対して非常に寛容なスタンスを取られていることも伝わってきます。飯間さんご自身、ことばの変化についてどのようなご見解をお持ちでしょうか?
飯間 まさに本書のタイトルである「ことばは変わるよどこまでも」ですよね。おっしゃるとおり、このシリーズを通じて、「新語が増えて困る、昔からある清く正しいことばを使いましょう」などとは一切述べていません。ことばは必要とされて生まれてくるので、使いたいことばはどんどん使っていい。
たとえば、最近若い人が使っている「それな」という相づちがあります。本書の「私には使いにくい『それな』」という節で書いたように、なかなか的確な使い方ができなくて、若い人には批判されました。でも、こうしたことばの変化を面白がって観察しています。
新しいことばが出てきたときの私の感想は、面白い、興味深いということ以外にはありません。その次に、何でその興味深いことばが現れたのだろうか、それを探求したい思いに駆られます。新しいことばが出てきて迷惑だとはまったく思わないんです。
本書のまえがきでことばを街並みにたとえましたが、街のレストランが閉店するのはお客さんが来なくなったからだし、マンションが増えるのは街に人が増えたからで、それぞれ理由があります。ことばも同じで、「それな」も理由なく広まったわけではなく、そこにこめられたニュアンスが若い人たち、新しい世代の気分に合っていて、なおかつそれまでになかったけれど必要とされる概念を含んでいたから広まっていったのです。
もうひとつ興味深いことばが「ぴえん」です。最近は使われなくなったという説もありますが、SNS上ではいまだに結構見かけます。「ぴえん」について本書では、「わんわん泣く」というひどく泣く様子と、「しくしく泣く」という声を出さない泣き方の中間にある泣き方だと説明しました。「びえーん」までいかずに、もう少しだけ声を出す泣き方。それが「ぴえん」です。
それに、「ぴえん」には小泣き程度の意味以外にも、ちょっと冗談めかすような独特のニュアンスもあります。遊びに行く約束をしていたのに、当日風邪でドタキャンをされた。その時に「残念です」や「なんでドタキャンするんだ」ではなく、「ぴえん」の一言があればこちらの気持ちが伝わります。そういった従来なかったコミュニケーション手段が自然に出てくるのは大事なことです。
昔の世代に「そんなおかしなことばは使うな」と言われたとしても、若い世代は自分の表現したいことを的確に形にしようとしてことばを使っている。おかしなことばではなく、大切なことばなんですね。
――その時々で新しい新語が次々と生まれていく。一方で昔の新語が再び使われるようになるという事例も紹介されています。たとえば「アセアセ」とかが挙げられますが、どうして一度使われなくなったものが、もう一度使われるようになるのでしょうか?
飯間 使われなくなったとおっしゃいましたが、まったくゼロになるわけではありません。流行語としてみんなが率先して使う時期もあるし、その流行がおさまったあと誰も使わなくなるかというと、引き続き使っている人がいる。その人のことばに接した新しい世代が面白がって、そのことばがまた使われる。長くことばを観察していると、その使われ方が波の形で推移していることがわかるので面白いですね。
昔の流行語が再び使われるようになった例として、いま「アセアセ」を挙げられましたが、もっと典型的なのが「まじ」です。「まじ」は江戸時代から使われていたことばです。明治以降は一般には忘れられていましたが、東京の下町では「あいつはまじなんだよ」などとずっと使われていました。それが、80年代に入った頃から、若い世代が下町の年配者が使う「まじ」を聞いて、面白がって再び使うようになったのではないか、というのが私の見立てです。
――「まじ」の江戸時代における使われ方と今の使われ方は一緒ですか?
飯間 いえ、使い方は少しずつ変わっています。江戸時代の「まじ」は、「真面目」という意味でした。「まじな女郎」というと、「一途な」とか「真面目な」という意味です。80年代でも「なに、そんなにまじになっているんだよ」というように使われた。これも真面目と言い換えられるでしょう。それが次第に「まじで今日は寒い」というように「まじ」に「で」がついて程度を表すようになりました。今ではその「で」がしばしば落ちて、「今日はまじ寒い」という言い方をしています。
『三国』では「まじ」の意味をいくつかに分けて説明しました。そのひとつが聞き返すときに使われるというものです。「まじで!?」とおどろきをこめるものもあれば、たいしたおどろきもなく「まじ?」と聞き返すこともあるし、最近SNS上では「マ?」という言い方もされています。さすがに江戸時代はこの使い方はありませんでした。そうやって少しずつ少しずつ、用法が広がってきています。
このようにして、古くからあることばが世代を越えてリレーしていく様子は興味深いことですよね。それなのに若者に「『まじ』を使うのはやめなさい」と言うのは、むしろ日本語の伝統の否定ではないでしょうか。
――本シリーズではたびたび時代を表すことばの話題についても紹介されています。本書第3章の「首都を『キーウ』と呼ぶわけは」の節では、ウクライナの首都の呼び方が「キエフ」から「キーウ」変わったことを取り上げていて、まさに現代を象徴するトピックだと思いました。
飯間 この節は、ロシアによるウクライナ侵攻が起こった直後に書きました。世界情勢の変化によって地名が変わるということを私たちは経験した。「キーウ」は象徴的な事例です。
ウクライナでの戦闘によって国際秩序が変わったということは、大人ならば最近の変化だと認識しているでしょう。昔はロシア語で「キエフ」と呼んでいた地名をなぜ今「キーウ」と呼ぶのか。それは、ウクライナの人びとの側に立ち、ウクライナ語で呼ぶようにしたからですね。でも、小学生の読者の場合、現在は高学年の子でも、侵攻がはじまった当初は中学年でした。「キエフがキーウに変わりましたね」と言われても覚えていないかもしれません。その意味で、子どもに読んでもらう文章としては記述が古くなっているんです。
ただ、世界情勢によって地名すら変わることがあるということは、小学生の読者にも知っておいてほしい。本書ではもっと古い例もいくつも出して説明しています。
――『三国』などの小型辞典では一部主要なものを除いて地名の見出しが立てられていませんが、中型辞典の『広辞苑』や『大辞林』などの最新版では「キエフ」で見出しが立てられています。広く辞書編纂の枠組みで考えたときに、現在の「キエフ」という見出しが次回の改訂で「キーウ」に改められる可能性はあるのでしょうか?
飯間 まず、『広辞苑』クラスになると、一旦載せたことばはそう簡単に削らないという方針があります。「キエフ」は残して、「キーウ」と二本立てになるでしょう。
今、紙の『大辞林』第四版で「キエフ」を引いてみると、「ウクライナ語ではキーウと呼ぶ」といったことは書かれていません。連日ニュースに出てくる「キーウ」のことが知りたくても、紙の『大辞林』では調べられないのです。一方、電子版の『大辞林』第四版には「キーウ」の見出しがあって、説明は「キエフ」に飛ばすようになっています。そこでは「キエフはロシア語による表記。ウクライナ語ではキーウ」と説明されています。この項目は、電子版で柔軟に付け足したということでしょうね。
――電子版だとそんなに簡単に手直しができるものなのですか?
飯間 さすがにこれは例外的な措置でしょう。『大辞林』第四版という建前の電子版ですから、紙版と電子版が全然違う内容だったら大問題です。この「キーウ」のような時事性の高いものについては、最小限の変更を加えるという方針なのだと思います。ですから、電子版に出てくる「キーウ」は空見出しで、説明は「キエフ」で見るようになっています。いずれも改訂にあたって、説明を「キエフ」ではなく「キーウ」の方に移すことになると思います。
――なるほど。そういう変更が行われる可能性があるわけですね。
飯間 いま紙の辞書をたしかめてみてわかるように、紙の辞書は時代の変化についていくのが難しいのです。だから、紙の辞書が使われなくなるのはやむを得ないことです。となると、デジタルに完全にシフトするようになるかというと、そうともいえない。なぜなら、紙版と違い電子版は改訂履歴が残りませんから、責任の所在が明らかでないのです。前の版では「キエフ」だったものが、次の版では「キーウ」に変わるならば、記述がどのように推移したか、紙版できちんと残しておくことは必要です。
――紙の辞書は今後も必要になるのですね。
――辞書の紙版と電子版が両立していく一方で、今後はAIを使った辞書の活用という可能性も考えられますが、そのことについて何かご見解はありますか?
飯間 これからの辞書は、AIを利用する方向に進んでいかなければいけないと考えています。
――進んでいかなければいけない、ですか。
飯間 そうです。現在、まだそこまでの動きはありませんが、今後はインターフェースに辞書AIを取りいれて、『三国』なら「三国ちゃん」といったしかるべきニックネームをつけて、「三国ちゃん、『いちご』について教えて」と聞くと、AIがその辞書に書かれている説明を瞬時に引き出してくれるようなシステムができればいいなと思っています。もちろん、その場合には、著作権がしっかり守られなければなりませんね。他のAIにその辞書の内容が簡単に模倣されては、ユニークな辞書を作ろうとする人はいなくなります。
――それは、個々の辞典に対して、固有のAIに限るということですか?
飯間 いえ、いまはたとえで『三国』AIのことを言いましたが、さまざまな辞典の内容を搭載した包括的辞典AIの「辞書くん」があってもいいのですよ。ただし、その辞書くんがことばを引くときにはその説明の出典がどの辞書なのか、責任の所在をきちんと明示する必要がある、ということです。
現在、AIの学習も進み、いろいろなことばを瞬時に解説してくれます。正誤が曖昧な面もありますが、そのようなハルシネーションは徐々に是正されるでしょう。ただ、AIには苦手なこともあります。それは「自ら工夫すること」です。
たとえば、「トルク」という自動車用語の意味を知りたいと思ったとします。まずは「トルク」でGoogle検索をすると検索結果のトップにAIが生成した概要が出てきて、「トルクとは、物体を回転させる力の大きさを表す物理学の用語です……ねじりモーメントとも呼ばれます」などとあり、さらに「トルクの性質」「トルクの活用場面」などが詳しく説明されています。たしかに詳しいのですが、「要するに何か」がはっきりしない。そこで『三国』では次のように書きました。
エンジンが回転軸を 回転させる能力。車の 発進や加速には、大き いトルクが必要。〔物 理学では「モーメント」 と言う〕
「車の発進」という具体例を中心に据えて、実感的な説明にしたのです。「ああ、たしかに車の発進には力が必要だね」と納得できませんか。こうした説明をAIが生成するには、人間による細かい指示が必要です。
説明の仕方を工夫する。これこそ私が一番やりたいことです。私にもわからないことばはたくさんあり、「それって要するにどういうこと?」と思うことはしばしばあります。もう少し素人にわかるように説明してほしいけれども、そうはなっていないから、それなら自分なりにわかりやすく書こうという思いが、ことばに対するアプローチの仕方に表れています。ちなみに、先ほど挙げた「いちご」を『三国』で引くと、
赤い、小形のくだも の。やわらかくて、表 面にぶつぶつがある。 すっぱくてあまく、ミ ルクの味と合う。
と、まったく科学的ではありません(笑)。
――ミルクの味と合うかどうかは意見が分かれると思いますが……。
飯間 でも、くだものの中でミルクの味と合うものでパッと思い浮かぶのはバナナかいちごなんですよ。「いちごミルク」といえばすぐに連想できませんか? つまり、ミルクと合うかどうかは決して個人の主観に基づいた記述ではないのです。すっぱくてあまい小形のくだものだけだと、みかんもりんごも当てはまる。そこに「ミルクの味と合う」といれることでいちごの味にたどり着くのです。
――言われてみればたしかにそうですね。
飯間 われわれが辞書を作るにあたって、このように試行錯誤を重ねながらことばにアプローチをしています。ですから、ことばの説明に関しては当分AIには負けない、負けたくないと思っています。 (おわり)
★いいま・ひろあき=国語辞典編纂者。『三省堂国語辞典』編集委員。国語辞典の原稿を書くために、新聞や雑誌、放送、インターネットなどから新しいことばを拾う毎日。街の中にも繰り出して、気になる日本語の採集を続ける。著書に『辞書を編む』『つまずきやすい日本語』『日本語はこわくない』など。また近著に『様子を描くことばの辞典』がある。一九六七年生。
書籍
書籍名 | 日本語どんぶらこことばは変わるよどこまでも |
ISBN13 | 9784620328270 |
ISBN10 | 4620328278 |