2025/05/30号 3面

近代日本の仏教思想と〈信仰〉

近代日本の仏教思想と〈信仰〉 呉 佩遥著 石原 和  「宗教」という概念が、日本の近代国家形成過程において、歴史的に成立したものであるということが自明のこととなって久しい。本書ではその関連概念である〈信仰〉に焦点が当てられる。  第一章から第五章では、「信仰」言説史を論じる。第一章は、明治初年の文明化、国民教化の文脈からの語りを取り上げる。島地黙雷を事例に、真宗で独自の文脈を持つ「信」が、近代国家を内面的に支える「信」として再解釈されたことを指摘する。第二章では、明治二〇年代における仏教改良の語りを分析する。当時の仏教界ではこれまでの仏教のあり方を批判し、改良を求める思潮が広がっていた。その中で、キリスト教を近代宗教の範型とし、それへの信仰を改良された仏教の姿に当てはめていく議論がみられた。第三章は、仏教改良から登場した「新仏教」での語りとして境野黄洋の「詩的仏教」を事例とする。これは、迷信的要素を含む経典の内容を人々が仏教を理解する詩的記述だとみなすもので、近代的合理知との均衡をとった「信仰」のあり方を示すものだった。第四章は、ユニテリアンと新仏教徒の対話を取り上げる。広井辰太郎の信仰論の特徴として、学術と宗教の調和、「人道教」という道徳的な宗教理解、宗派の相違を問わない普遍性への志向と表裏一体の日本の特殊性への回帰が指摘される。第五章では、世紀転換期の語りに注目する。このころ、仏教の捉え方の哲学から体験への変容、文明として「宗教」に接してきた日本人の無宗教や信仰の欠如の問題視を背景に、「信仰」の内容が盛んに議論されるようになっていた。境野黄洋は、精神主義の思想を内観、感情に偏重していると批判して、「健全なる信仰」を提起し、「時代智識」と歩調を合わせた「信仰」を強調した。その結果、合理性の強い「信仰」概念が形成された。  第六章から第八章では、形成された〈信仰〉がどう機能したかを論じる。第六章では、宗教学に注目する。姉崎正治を事例に、科学としての宗教学の構築過程において、修養ブームを背景に「儀礼」と「信仰」の相互作用が強調されたこと、そこには「儀礼」の動機づけとなる内面的な「信仰」の重視がみられることが指摘される。第七章では、近代において盛んに語られた「人格」概念との関連に注目する。仏陀や阿弥陀仏の歴史性と超越性が問題となる中で、その「人格」を信仰の拠り所とする語りや、救済者である阿弥陀仏への信仰が自己の「人格」の向上を促すという語りが登場する。第八章では、「信仰」が「日本仏教」の優位性を語るのに用いられたことを論じる。「日本仏教」の固有性を語る際に「信仰」が強調され、「支那仏教」は「学問的」「理論的」とみなされた。中国での布教権に関わる議論の中では、「信仰」を確立した「新仏教」から「哲学」的な「旧仏教」への批判を横滑りさせる形で、「非日本仏教」に対する「日本仏教」の優位性を示そうとした。  本書によるならば、国民教化や国家神道と関わって公に近い形で進められた「宗教」概念の形成過程と比較すると、「信仰」の場合、仏教の有用性の主張、仏教改良、近代化など、主として仏教界の私的な事情から、各段階で複数の担い手によって複線的に進められたこととなる。この「信仰」概念に近代の仏教が経験した軌跡が織り込まれている点は非常に興味深く、その意味で、終章で著者が掲げる宗派と国境を越えた展開を解きほぐそうとする展望に期待したい。一方で、こうした私的な「信仰」がいかにして一般語となりえたのかという疑問も生じる。また、「信仰」は、明治一五年以降に非宗教化された神社のあり様や、そこから排除された「信仰」を包含した教派神道の立ち位置に関わる問題を孕む語でもある。こうした「信仰」と、本書で明らかにされた仏教の事情から形成された「信仰」はいかに関わり、両者にはどのような違いがあるのか。これらの点を突き詰めていくと、従来、国家神道に関わる動向に偏重していた近代日本宗教史の全体像を再度結び直すヒントにつながるかもしれない。(いしはら・やまと=同朋大学仏教文化研究所所員・近世~近代の宗教史・思想史)  ★ウー・ペイヨウ=中国上海師範大学人文学院准教授・宗教学(近代日本宗教史)。東北大学大学院国際文化研究科博士課程修了。主な論考に「新仏教の夜明け──境野黄洋の信仰言説と雑誌『新仏教』」など。

書籍

書籍名 近代日本の仏教思想と〈信仰〉
ISBN13 9784831855886
ISBN10 483185588X