2025/09/05号 5面

文芸・9月

文芸 9月 山田昭子  私たちは日々、様々な「スイッチ」を切り替え、その場に応じた自分を相手に見せている。「名前」の使い分けは切り替えのきっかけとなるが、芸名やペンネーム、身近なところでは婚姻後に改姓した際の氏名が挙げられる。近年はSNS上のアカウントネームもまた、気軽に切り替えられる「名前」として用いられ、複数アカウントを使い分けるという行為は、すなわち切り替えられる自分を増やす行為でもある。  八木詠美「三名一体」(『新潮』)の只見文夏は、結婚後の吉田文夏、ペンネームである後白河スフィンクスという三つの名前を持つ。本作は多くの人が無意識に使い分けているペルソナを、文夏が内面で繰り広げる「三名」の会話によって具現化する。只見文夏は三名の中で最も社会的立場が弱い。改姓したことで消えつつある自身の存在を主張する文夏の声は、姓を同じくすることが果たして家族の「一体感」に繫がりうるのか、そして家族は「一体」でなくてはならないのか、という夫婦別姓制度問題に対する問いかけにも繫がっている。日々の生活を送る中で、三名は「絶えず何かを証明しないといけないような」気持ちを抱くが、それは自身の存在理由を自分の外部である〈他者〉に求めているからだろう。自身が積み重ねた記憶を思い出し確認すること、それは自分自身を認めることであり、三名一体となった「わたし」を支える活力となる。  上田岳弘「ノー・ファンタジー」(『すばる』)の「僕」は会社を売却した金で無気力な日々を送っていたが、15年ぶりの同窓会で再会した三木遥と関係を持つようになる。「僕」は自分に接する遥が日常生活とは異なる「モード」であることに気づくが、結婚、出産、離婚を経験した遥にとって、おそらく「モード」は一つではない。遥は、子供との生活を「主旋律」に見立て、その裏にある「隠れたビート」を感じるために、性行為の最中、「僕」に首を絞めることを求める。子供に対する教育や愛情も結局ファンタジーなのであり、人はそれぞれの幻影に縋りつかなければ生きていけないのだ、と言う遥が感じようとする「隠れたビート」とは、幻影に縋る日々の中で見失いかけていた「生」の実感ではないか。すべてに対し「どうだっていい」と考えていたはずの「僕」もまた、自らの首筋の鼓動を感じ、自身の中で失われていなかった「生」の希望への気づきを得るが、「僕」にそれをもたらしたものこそ彼女との対話であったといえよう。だが、対話すべき「言葉」を失った時、人はどうなるのだろうか。  村田沙耶香「忘却」(『文藝』)に登場する女性、岡本は、ある朝起きたらいくつかの言葉を失っていることに気が付く。同僚の雪野に勧められるがまま始めた自殺幇助のアルバイトでは、詳しい背景を知らされないことに抵抗を抱くが、袋に入れられ顔も見えない相手に対しひとたび力を振るった岡本は、容易に環境に適応してしまう。本作は「特集 戦争、物語る傷跡」の中の一作だが、実感がないまま訪れる他者の死、次第に作業にのめり込む岡本の姿は、昨今SNS上で繰り広げられているある種の戦争、「炎上」を想起させる。自身の内に潜む暴力性に支配され、他者に乗じて攻撃する時、人は自らの言葉を失う。岡本の体内を駆け巡る「蛇」は、自身の中に抑圧されている暴力性のあらわれといえよう。だが、いつしかその立場は逆転し、今度は自分が顔の見えない他者に攻撃されてしまう。「消滅」した岡本に降り注ぎ続ける言葉の雨が、不穏な読後感を残す短編だ。  言葉は時に人を傷つけるが、互いの存在を確認し合う手段として、安心をもたらすこともある。古川真人「近づくと遠ざかる船」(『文學界』)に登場する長男の浩、次男の稔、妹の奈美は、久しぶりに福岡の実家で再会する。三人は会話を交わすうち、いつの間にか言葉を発さずとも想念だけでやりとりができるようになり、語り手と視点を切り替えながら「記憶」にまつわる議論を繰り広げる。三人はやがて想念を通し、稔の記憶の中にあるという水平線上に停泊していた船に向かって、幼少期に慣れ親しんだ道を歩きはじめるが、目的は船の存在を証明することではない。そこにあるのは「思い出す」という行為の過程で互いの記憶を持ち寄り、言葉を紡いで船までの道のりを作り上げることの喜びだ。  『群像』は「80年目のサマー・ソルジャー」と題した特集を組んだ。滝口悠生「花火」は語り継がれる「記憶」と受け手側の「実感」の間にある距離感を描く。四十歳である「私」は今年で九十歳になる大家さんの戦争体験を聞く。だが、当事者ではない「私」が感じ取るのは、戦争教育を通して感じた恐怖や悲惨さでしかない。どこかで聞こえた音だけを頼りに、それが花火であるかどうかを探るように、「私」は時間という距離、地理的な距離を縮められない事象に対して実感を抱けず、かける言葉がないことに無力さを感じる。戦争を「語り継ぐ」ためには聞き手の存在が必要である。しかし、必ずしも適切な言葉を探り当てることだけが正解であるとは限らないのではないか。言葉に耳を傾け「覚えている」ことは力になる。聞き手がいる限り、語られた言葉が消えることはない。(やまだ・あきこ=専修大学非常勤講師・日本近現代文学)