2025/10/03号 3面

広告の昭和

広告の昭和 竹内 幸絵著 塚田 由佳  いやはやとんでもないことを引き受けてしまった。本のタイトルから「昭和の広告にまつわる本だから、何か書けるだろう」とうっかり受けてしまったものの、送られてきた450ページを超える本書には、テレビCMが生まれる前の、それこそ初めて見る秘蔵の〝動く〟広告も紹介されており、正直驚いた。「広告」は、流れては消える泡沫の制作物。それゆえに古い動画を見つけることが難しく、ここまで遡って網羅的にまとめた文献は今までなかったであろう。まずは、著者の膨大な資料の収集の労と分析に対して敬意を表する。  この本を、大きく二つの軸から捉えてみたい。一つは、メディアとしての動画広告の誕生と成長。もう一つは、それを開拓したクリエイターたちの越境と挑戦だ。  一つ目、動画広告はいつ、どのように生まれたか。テレビCMのスタートは、1953年に民放第一号の日本テレビが開局して以降だが、実はそれ以前にも、広告的な動画は存在した。明治の廣告幻燈会に始まり、戦前には「広告映画番組」、戦中には「文化映画」として特設会場での上映もあったようだ。企業を資金源として広告動画を作り、メインコンテンツを無料でオーディエンスに見せるというビジネス形態は、この頃すでに生まれていた。  そうした地ならしを経て、1953年から1960年のテレビCM黎明期には、戦前から蓄積されたアニメーション技術がテレビCMというメディアを牽引し、持永忠仁、川本喜八郎らによる人形を使ったコマ撮りアニメの傑作も生まれる。「ワ、ワ、ワ、輪が三つ」と歌い踊る三人娘のミツワ石鹸のCMなど、今見ても素晴らしいクオリティだ。  1966年の暮れにカラーテレビの普及が100万台に突入すると、満を持してレナウンの「イエイエ」CMが放映される。サイケデリックなデザイン、小林亜星の音楽、色彩旋風などが時代を一気に変え、「イエイエ」前/「イエイエ」後と言われるほど、テレビCMは突如開花した。  テレビのカラー化と、その普及率の上昇。この二つが揃っていよいよ本格的なマス広告の時代が始まる。インターネットが出現するまでは、テレビCMは不動の最強メディアであり続け、その時々の流行と社会現象を作っていく。  さて、二つ目の軸、動画広告を開拓したクリエイターたちの越境と挑戦についてである。興味深かったのは、グラフィック・デザイナーが、日本の動画広告というジャンルになかなか参入しなかった理由を紐解いた箇所だ。動画広告が生まれる以前も、グラフィックは花形であり、高名なグラフィック・デザイナーは存在していた。彼らにしてみれば、動画は尺(時間)が制限され、流れては消えていくものだった。しかも共同制作を基本としており、あまり興味がそそられるものではなかったという(手本にしたアメリカの広告界ではアート・ディレクターとコピー・ライターがユニットでグラフィックもテレビCMも作っていたのに)。先述の人形作家・川本喜八郎や、久里洋二、柳原良平、真鍋博、やなせたかし、和田誠など、アニメ界には優秀なクリエイターが点在していた。しかし、グラフィック・デザイナーの大半は、テレビCMへの越境を躊躇した。  1961年、亀倉雄策が有名な「東京オリンピック第一号ポスター」を制作し注目を集める頃、一方でNHKの受信契約数は500万件を超え、広告の中心は確実に紙媒体からテレビに移りつつあった。デザイン界における「旧世代」と「新世代」はこの時点を境に、袂を分かつ。格式高い美しさを重んじる「日宣美」は、商業広告と呼ばれることを嫌い、ますますサロン化し、若手・中堅はそこを離れ、リミテッド・アニメなどテレビCMに新しい表現を模索する道を選んだ。その後、東京オリンピックの熱が冷めた1967年頃には、例のレナウン「イエイエ」を皮切りに、グラフィック界隈の若き才能がCMに流入し始めることになる。  「イエイエ」は実写映像の模範CMを作り出した巨匠ディレクター、杉山登志の作品で、彼は日本のCMを海外に認めさせた第一号ディレクターでもある。今見ても、色褪せることのない構図の斬新さ、美しさ。音の効果的な使い方。ソール・バスの映画タイトルのグラフィカルな手法や、アニメの動向などをしっかり抑えた上でのトータル芸術としてのテレビCMが、彼の手により日本に初めて出現した。天才ゆえに夭折。お目にかかることができなかったのが残念でならない。  映画監督の大林宣彦もこの頃CMを量産している。彼にとっては面白いことのできる「実験場」がテレビCMだった。アングラぎりぎりの表現でも、商品さえ押さえておけばとりあえず許されるテレビCMがとにかく魅力的だったのだ。普及したての小型映写機で、低予算で小気味よくチャレンジし続けた彼のやり方は、誰もがスマートフォンで動画を自在に発信する現在と重なる。  〝広告の昭和〟を締めくくるクリエイターとしては、石岡瑛子が登場する。グラフィック・デザイナー/アート・ディレクターが、グラフィックもテレビCMの仕事も、垣根なしに本格的に担う時代の到来。パルコで、15秒のゲリラ型「動くポスター」を開拓し、石岡は時の人となる。だが、その存在は、広告の文脈だけでは語りきれない。やがて広告から映画・舞台へ。日本から世界へ。女性性の解放。エコロジー。視野も着々と広がっていき、地球を俯瞰するレベルに到達する。彼女がクリエイター人生の初期に手がけた資生堂やパルコの広告は、同時代の女性たちをどれほどエンパワーしたことだろう。「わかる人にわかればいい」。そう割り切ったからこそ生まれた表現は、ロックで、パンクで、圧倒的に格好良かった。想像するに、彼女はきっと女性であるがゆえに、最初から覚悟ができていたのだ。男たちのように失うことを恐れない。なぜなら、もともと何者でもなかったのだから。あらゆることにチャレンジできた。テレビCMも、石岡瑛子にとっては、新しいオモチャのようなものだったのだろう。  1973年のオイルショックを経て、1970年代中盤から80年代前半にかけて、カウンターカルチャーだったテレビCMはサブカルチャーになる。結果、面白いことをしたい、という若手クリエイターたちが挙って集まる場所になっていった。当時のテレビCMは「ビックリハウス」などインタラクティブなカルチャー誌と共にあり、確かに時代を牽引していた(本書には書かれていないが糸井重里もそこにいた)。そして、石岡がパルコを去るのと時を同じくして、昭和は終わる。1989年、インターネットという新種のメディアが生まれ、「マス広告の終わりの時代の始まり」という言葉で、本書は締めくくられている。  個人的には、平成の中盤までがテレビCMの全盛期だったと考えている。サブタイトルにある「テレビCMがやって来る!」の通り、主に全盛期前夜までのことを中心にしてまとめられている。広告業界に長らくいても、ここまで一気に見返す機会はなかなかなく、たいへん勉強になった。  末筆ながら、書評を書くにあたって、汐留電通ビル地下にあるThe Ad Museum Tokyoを改めて訪れてみた。それこそ「べらぼう」で話題の蔦屋重三郎や平賀源内などが活躍した江戸時代の印刷物は結構残っているのだが、動画は、さくらフィルムの「僕はアマチュアカメラマン」(1951年)が現存するいちばん古いテレビCMだった。前述のミツワ石鹸や、文明堂豆劇場「カステラ一番、電話は二番」、アイデアル洋傘骨「なんである、アイデアル」、パイロット万年筆「はっぱふみふみ」、森永エールチョコレート「大きいことはいいことだ」など、懐かしい名作CMも見られ、ACC年鑑も最初から全て揃っている。なかなか見応えがあるミュージアムなので、興味のある方には是非足を運んでいただきたい。本書の理解も一層深まるに違いない。(つかだ・ゆか=電通 クリエイティブ・ディレクター/コピー・ライター)  ★たけうち・ゆきえ=同志社大学社会学部メディア学科教授・広告史・デザイン史、メディア論。神戸大学大学院国際文化研究科修了、博士(学術)。著書に『近代広告の誕生』など。

書籍

書籍名 広告の昭和
ISBN13 9784791777198
ISBN10 4791777190