幸せな家族 鈴木 悦夫著 坂嶋 竜  ひとは、大人になる過程で仮面をつける。  周囲から常識的な行動を求められたり、建前を口にすることを覚えたりと、それには様々なケースがあるだろうが、本来の自分を偽りの表層で覆い隠すことは、誰もがいつしか覚える処世術なのではないか。  だから、〝幸せな家族〟というコンセプトのCMを作るべく、誰が見ても幸福そうな家族をロールモデルに選んだとしても、それが彼らの本当の姿だとは限らない。本作は、理想的な家族のモデルとして保険会社から選ばれた「中道家」の人々が、連続殺人に見舞われるミステリである。撮影をきっかけに、それまで他人に隠していた彼らの感情や思惑は絡まり合い、まるで「その頃はやった唄」という実在の歌の歌詞になぞらえたかのように、一人ずつ死んでいってしまう。  物語の語り手となるのは、事件の内容をテープレコーダーに記録する中道家の次男・省一。子供らしい自由さや奔放さも覗かせつつ、どこか冷めた彼の淡々とした語り口は、物語全体を覆うぼんやりとした不安、曖昧な不気味さをうまく表現しており、作者の計算が隅々まで行き届いていることを示している。  そんな本作を象徴する、印象的な言葉がある。  省一はあるとき、こういう言葉を口にする――「ぼくだけでもふつうの子どもらしく、ふるまってあげたい」、と。誰しも〝ふつう〟であることは難しいし、それがCM撮影のように〝ふつうの幸せ〟を過剰に求められている状態であれば、なおさらだ。しかし、本来の自分を押し殺し、求められる姿を〝らしく〟演じること。それは、省一や中道家に限ったことではない。  ミステリとして本作のネタだけに注目すれば、海外の有名作を筆頭に、似たような例は多数ある。にもかかわらず、本作が多くの読者から支持を集めている背景には、ミステリとしての構造と、CM撮影という舞台設定に、〝らしさ〟を演じる仮面性という共通点があるからではないか。  本音を隠しつつ、噓を吐かない範囲で、求められる姿を演じることは、誰にでも心当たりがあるはずだ。関係維持のため、都合良くことを運ぶため、見栄のため……仮面的な二重性は、どんな家族間にも、どんな友人間にも、あるいは誰と誰との間にでも、発生しうるのだ(作者がそこまで計算していると思えるのは、死の連鎖がいち家族の中だけでなく、省一の友人のところまで及んでいるためである)。  そんな経験をもつ読者それぞれが、本作のトリックと無関係ではいられない。その上、大人であれば誰もがかつて経験した子供という視点が、共鳴をより増幅させる。  誰にとっても、他人事ではない物語。だからこそ、多くの読者の心に刺さる一冊となったのではないだろうか。(さかしま・りゅう=ミステリ評論家)