2025/03/07号 5面

もっと読みたくなる! 芥川龍之介

もっと読みたくなる! 芥川龍之介 野田 康文編/入江 香都子・溝渕 園子著 関谷 由美子  二〇二七年の芥川没後百年を見据え、日本文学・比較文学の研究者四人が、内容・記述形式、双方にわたって、芥川研究の現代におけるアクチュアリティを提示しようとする試みである。芥川文学の刷新のみならず文学研究自体を従来のスタイルから解き放ち、閉ざされがちな〈専門性〉を、より広い読者層に届けることが目論まれている。したがって、本書には定義も曖昧な学術用語などはほとんど現れず、近代文学固有の主観主義的性質を捉えるべく〈熟読〉に賭ける読み手の主体性も研ぎ澄まされている。扱われた作品は、総ページ数の四分の一を占める「藪の中」を中心に「秋」「庭」「六の宮の姫君」「白」(第一部・第二部)などが並び、〈世界文学のなかの芥川〉の観点から〈越境〉をテーマにした比較文学的アプローチによる三編の論文(第三部)も、新しい成果を挙げている。  野田氏と西氏の「藪の中」論については後段に譲るとして、同じく野田氏による「秋」を見てみよう。野田論文は、小説に仕掛けられた巧妙な語りの戦略を析出することで「秋」を、以下のように新たに読み替えている。他者によって言語化された心地よい〈才媛物語、恋譲り物語〉を生きる信子には、それらの〈物語の外〉にある〈自分自身の俊吉への心〉は〈見えず〉したがって〈語ることができない〉、つまりテキストの深層にあるのは、信子というヒロインの〈言語化されない物語〉なのである。  第二部入江香都子氏の三論文は〈アイデンティティの不安定性〉に焦点化している。「〈私〉を探す物語」という副題にもっとも即した内容をもつ「「白」―名前をめぐる物語」をとりあげてみたい。入江論の新しさは、「白い犬」が「黒い犬」に変わったという、物語の前提となる(かに見える)不思議には少しも捉われず、あくまで、色を、茶髪や黒髪のような交換可能な属性と見ている点にある。その論法によって、エゴイズムによって罰せられた「白」が、その後の勇敢な行いによって救済される、という童話的象徴性を脱し、他者の眼差しに依存するほかない存在の不安に翻弄される哀れな生き物の〈死に至る孤独〉を炙り出すことができた。  野田氏の「藪の中」論は、〈殺人事件〉における盗賊・夫・妻、三者のそれぞれを襲った「決定的瞬間」という視座のもとに三者の心の惨劇(=熱狂)に踏込み、この小説の多面性の仕組みを丁寧に解き明かそうとするものである。新鮮に感じられたのは、野田論文が真砂の武弘への殺意の「隠れた動機」として、夫の「蔑むような冷たい眼」を指摘しつつしかしそれがあくまで「真砂の認識」であること、つまり夫婦に〈意識のすれ違い=誤解〉があったこと、武弘は妻を「蔑み」の目で見てはいないことを指摘した点である。〈蔑む者〉〈蔑まれる者〉の、二項対立の自明性が崩壊する時、武弘の絶望の意味は再考を迫られよう。これに対して西論文(コラム3)は、森鷗外の「鼠坂」を踏まえた上で、三者のドラマを戦時性暴力の問題へと社会学的に拡張し、多襄丸と武弘の「ホモソーシャルな共謀」を抉り出す。両論文共に〈殺したのは誰か〉という客観的現実に対する謎解きから「藪の中」を解放している。現在の「藪の中」研究が孕む二つの方向性のそれぞれの達成とも言えよう。溝渕園子「芥川周辺から辿るロシア文学との邂逅の磁場」(第三部)は、文壇デビュー期までの芥川の、ロシア文学との接触の様相を調査した労作である。特に、夏目漱石の「木曜会」に参加し、漱石に起用されてロシアの文学事情を『朝日新聞』「文芸欄」に活発に紹介したエリセーエフの業績・影響力を考察した部分が非常に興味深く、漱石と芥川の絆に新たな視角をもたらした功績は大きい。(西成彦・特別寄稿)(せきや・ゆみこ=日本近代文学・女性学)  ★のだ・やすふみ=福岡大学非常勤講師・日本近現代文学。著書に『大岡昇平の創作方法』など。  ★いりえ・かつこ=日本近代文学。共著書に『「歯車」の迷宮』など。  ★みぞぶち・そのこ=広島大学教授・日露比較文学。

書籍

書籍名 もっと読みたくなる! 芥川龍之介
ISBN13 9784867930588
ISBN10 486793058X