2025/06/20号 3面

モダン・ファッションのパイオニア 田中千代

モダン・ファッションのパイオニア 田中千代 本橋 弥生著 青木 保  田中千代は現在の日本のファッション界の土台を築き発展させた中心的存在であり、その活動は多岐にわたる。自らファッション・デザイナーとして活動するだけでなく日本のファッション文化・服飾文化の発展と充実を期する教育者でもあり、「総合芸術」と称して積極的にファッション・ショーを行った事業家でもあり、その活動はずば抜けて「越境」的国際的であった。そして何よりも「洋装化」を推し進めることによる女性の社会活動と自立を目標とする啓蒙家・思想家でもあった。それは洋装文化の発展が日本の近代化を推進させる大きな力になることの実践でもあった。  本書はそうした田中千代の生涯と活動を正面からとらえ豊富な田中に関する一次資料を屈指して書き上げた力作であり、この偉大な人物の全貌を余すことなくとらえようと試みた優れた評伝である。  先ず本書には表紙カバーに千代が1951年に作ったイブニングドレス「グランド・ワルツ」の素晴らしい写真がある。また口絵写真として田中千代がデザインしたドレスの写真が1930年代から晩年の89年まで21枚掲載されている。いずれもいま見てもハッとするような素晴らしい作品であり、それこそ今年のパリコレに出してもおかしくない優れた魅力的なドレスである。この素晴らしい写真で田中千代は21世紀の現在彼女に関するこの評伝を読む者に過去ではなく現在を感じさせてくれる。  著者は田中千代の生涯と活動を詳細に辿ってゆく。田中千代は1906年に東京の外交官の家に松井千代子として生まれた。父の慶四郎は後に外務大臣となる。母方の今井家は証券会社などを作った実業家の家である。千代は西洋人の来客も多い外交官の家に育ち西洋文化を直接知る機会が小さい時からあった。ミッション系の雙葉女学院に学び卒業すると18歳で結婚する。相手は名のある子爵家の田中薫である。千代がファッション・デザインに本格的に目覚めるのは理学博士の夫薫の研究留学に従って欧米に滞在したことによる。パリに滞在してチューリッヒのモード・コスチューム専門学校に入り校長のオットー・パース=ハイエの薫陶を受ける。ここで彼女は表面的なことだけでなく「物の本質」を見る心を養ったという。その後薫についてニューヨークヘ行き、「トラベーゲン・スクール・オブ・ファッション」に通う。エセル・トラベーゲンが主宰するこの学校はスイスの学校とは違い徹底的に実用性を重んじるところであった。千代は薫が帰国した後もニューヨークに留まりアメリカ流のプラクティカルなファッション制作を学んだ。こうして千代はファッション・デザインの専門家になる道を進み始める。千代は1933年阪急百貨店社長小林一三の依頼により婦人服部の初代デザイナーに就任する。ファッション・デザイナーとしての田中千代の誕生である。 さて、ここから展開されるのは田中千代の日本のファッション界を牽引する生涯と活動である。1906年に生まれ1999年に亡くなった彼女は20世紀をまさに生きた。著者は田中千代を捉える視点として三点を挙げる。先ず「越境性」と「グローバルな視点」、次に田中千代の「デザインの特徴とデザイン観」、そして「メディアとのかかわり」である。納得のゆくまとめ方であろう。意を尽くした著者の叙述には説得力がある。詳しくは本文を読む読者にゆだねるが、田中千代のファッション活動は先にも触れたように阪急百貨店でのデザイナーとしての活動から始まったのであるが、当初から西洋の服装に合わせるだけでなく洋装に日本のキモノの要素を取り入れ洋装とキモノの調和を図ったと評されている。「ニュー・キモノ」をデザインしてニューヨークで発表もした。  千代には「洋装化」による女性の「解放」とでもいうべき確信的な日本社会の近代化への強い思い・思想があったと思われる。それが千代の生涯と活動を辿ってきた者に深い印象を残す。すでに1930年に発表した文章の中で「第一に日本の婦人服が如何に運動に仕事に不自由であるかと」感じると言い、「日本において婦人は初めて社会に乗り出そうとしています。この際にあって私は未だにあの不実用不自然の服が保たれていることが不思議に思われてなりません」と述べる。また「今日日本において用いられている洋服は実用の点では及第としても美の点から見て落第かも知れません」、そして「美と実用とを兼ねた服装を考案してゆくことも怠ってはなりません」とファッション・デザイナーとしての決意も表明している。とはいえその後の日本は日中戦争・第二次世界大戦に突入してゆき戦時中の国民服・婦人服などの困難な時代になるが、この時代にあって「日本人はどのように装うべきか」という問題は逆に真剣な課題となる。西洋文化だけでなく広くアジアの文化・衣装にも関心が向けられたのである、時代は戦後になり田中と同時代に活動したデザイナーは杉野芳子や伊東茂平など幾人か数えるが、彼らが洋裁教育や紙面上でのデザイン活動を主にしていたのに対して、企業や実務を中心としいわばファッションの現場を持ち、さらに国際的な視点や創造性を重視していた点が田中の活動を特徴づけていたと言われる。  著者は戦後日本の大きな社会変化の中での田中千代を中心としたファッション界の動きを詳細に追ってゆく。それは本文に照らして読者が辿って欲しい。ニューヨークで自己のデザインした作品によるファッション・ショーを行い、クリスチャン・ディオールと組み多彩な内外での活動を展開してゆく。田中千代学園を設立する。松下幸之助などの財界人の支援を受ける。充実した生涯は20世紀の終わりまで続いた。  いま私は本書で知った田中千代の業績の中で二つのことに関心を持つ。先ず田中千代の「比較文化的な「衣装」への関心である。西洋だけでなくアジアでもインドネシアなどに行き土地や地域の「民俗・文化・衣装」に強い関心を抱き各地の衣装を集めた。この一大コレクションは現在大阪にある「国立民族学博物館」に収納されている。いまひとつは田中がファッション・ショーを「総合芸術」として捉えようとしていたことである。戦前からファッション・ショーを行っていた田中は戦後いち早く1947年にはファッション・ショーを行っている。私は国立新美術館でディオールのファッション・ショーも開催したが、ファッション・ショーというものがいまひとつわからないので、「総合芸術」としてどのように展開してゆくつもりであったのか、千代に訊いてみたい気持ちである。著者に望むことはこうした面も踏まえて大規模な「田中千代展」をぜひ企画開催してほしいということである。あまりの多岐にわたる田中千代の活動と生涯を日本社会の変化や衣服史と絡めて詳しく述べる本書の紹介としては舌足らずになってしまったが、田中千代という日本の近代化に対しても多大の貢献のあったこの存在にしっかりと光を当てた本書は素晴らしい。(あおき・たもつ=大阪大学名誉教授・国立新美術館前館長・文化人類学)  ★もとはし・やよい=京都工芸繊維大学准教授・ファッション史。二〇一三年から十年間、国立新美術館主任研究員を務める。一九七四年生。

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