2025/09/19号 7面

百人一瞬 Crossover Moments In mylife 79 ・近藤譲

百人一瞬 小林康夫 第79回 近藤譲(一九四七―     )  ヴァイオリンと打楽器だけ。その響きがホールいっぱいに立ちのぼる。しかし広がっていくのは人の心や情の波動ではなく、人という存在の限界を少しだけ向こうに超えて波打つ時空の響き。「劇」にはけっして回収されない世界の佇まい。この世界にあることが、そのままで「歌」であるような……「過激な慎ましさ」とでも言おうか。近藤譲さん作曲の「接骨木の3つの歌」。感動した。  先月、近藤さんからのご招待をいただいて、サントリーホールで開かれた「第55回サントリー音楽賞受賞記念コンサート」に参じた。一昨年の受賞式にも呼んでいただいたのだが、それだけではなく、その年はオペラシティで上映された近藤さんについてのドキュメンタリー映画「A SHAPE OF TIME—The composor Jo Kondo」(ヴィオラ・ルシエ、ハウケ・トーハ監督)上映のあと、ステージで二人で対話を行ったのだった。その対話のタイトルが、そこでわたしが口にした「過激な慎ましさ」という言葉だったのだ(この対話は、水声社の「コメット通信」第35号で読める。http://www.suiseisha.net/blog/?page_id=16501)。  音楽は、わたしにとっては幼年時代からのある種のトラウマ、わたしには禁じられた世界だったのだが、一九七〇年代から八〇年代にかけて現代音楽こそ同時代の最先端の指標だと「日独現代音楽祭」や武満徹さん(第42回)の「Music Today」、そして近藤さんの「ムジカ・プラクティカ」(八一~九一年)などに通い詰めた。そう、近藤さんの曲をはじめて聴いたのは、たしか七八年、武満さんがオーガナイズなさったパリの「秋のフェスティヴァル」ではなかったか。ソルボンヌ大学のなかにある教会の空間で近藤さんの曲「ブルームフィールド氏の間化」や「結ぼれ」が立ち昇るのをびっくりしながら聞いていたのではなかったか。  その延長線上でということになるか、近藤さんの助けを借りて、わたしは八七年に東京大学に新設された「表象文化論」という学科の存在意味を問うために五人の現代作曲家を招いて公開講演会を開催した。クリスチャン・ウォルフ、ルイジ・ノーノ(第3回)、ジャン=クロード・エロワ、ヴィンコ・グロボカール、そして近藤さんだった。その記録は『現代音楽のポリティクス』(書肆風の薔薇)として刊行されたが、刊行に先立って、近藤さんと音楽学者の笠羽映子さんと三人で鼎談をした。そこでは、現代音楽の転回点に差し掛かっているという共通認識のもとで、わたしは「近藤さんは滅びゆく最後の作曲家ですから」などと暴言を吐きつつ、近藤さんに音楽空間、音楽の問い、政治性や伝統・伝承性について次々と問いを投げつけたのだった。  いまから思うと、それは、わたしにとっては、二〇年に及ぶ現代音楽からの学びの審査会だったのではないか(たぶん「不合格」だったと思うが)。  先日のサントリーホールのコンサート、「接骨木の3つの歌」に続くのはオペラ「羽衣」だった。オペラと冠されてはいるが、近藤さんの言葉では「抒情的情景」、当然、「劇」ではなく、「情景」としての世界が演じられている。だが、コンサート形式の制約の下とはいえ、オペラである以上、舞踏もあれば語りもある。演出がある。「舞台」はすでに作曲家の手を離れてしまっている。その「オペラ」をどう受けとめるか、近藤さんからわたしにまた難問がひとつ送りつけられたような気がして、ああ、わたしも、わたしの思考の「羽衣」を見つけなければ……と焦る今日この頃なのだ。(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)