2025/12/26号 14面

赤線地帯

「溝口映画の頂点『赤線地帯』」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)419(聞き手=久保宏樹)
ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 419 溝口映画の頂点『赤線地帯』  HK ラングロワの場合、一般の映画館で見られない作品が多くても、シネマテークで見る機会があったのではないですか?  JD はい。当時、シネマテークはすでに存在していました。しかし、見られる作品は限られていたのです。フランス映画、戦前のドイツ映画、エイゼンシュテインやドヴジェンコらのソヴィエト映画、またはチャップリンやグリフィスなどのアメリカ映画です。最初期のシネマテークは、無声の時代の名作を上映することが多かった。ロッセリーニやニコラス・レイの映画がシネマテークで特集されるようになったのは、『カイエ』の執筆陣が活躍以降のことです。ロッセリーニもニコラス・レイも、その当時は古典映画ではなく、最新の映画だったのです(笑)。そうした映画を見ることができたのは、主に映画祭やシネクラブといった場においてでした。シネマテークが彼らの作品の上映を行ったのは、一九五〇年代半ばからだったと思います。ロッセリーニやフェリーニなどがパリに来た際に、シネマテークに招待して上映を行い、同時に特集上映を行っていました。  それとは別に、カンヌなどの映画祭で評判を集めた作品もシネマテークで上映していました。『雨月物語』くらいからのことです。『雨月物語』を初めて見た時には字幕があったと思います。いずれにせよ私は『雨月物語』を繰り返し見ることになるのですが、内容はすぐに理解しました。溝口は本当に偉大な映画作家であり、映画の言語によって映画を作っていたからです。彼の映画においては脚本が、脚本家と一緒になって無駄なく作り込まれている。日本語が理解できるならば、言葉の掛け合いも面白いものであることがわかります。それは、あなたたちがフランス語の映画を見るときでも同じはずです。真に優れた映画は言葉がわからずとも、重要なものであるということをすぐに理解させられるのです。『雨月物語』以降の溝口の作品は、衣笠貞之助の『地獄門』が商業的に成功して、ちょっとした日本の時代劇ブームがパリで起きていたので、街中の映画館で上映されていたと思います。  『赤線地帯』に関しては、一つ覚えていることがあります。当時の上映状況に関しては、はっきりと覚えていませんが、私はフランス語の字幕がついていないものを見たように思います。もしくは非常に出来の悪い字幕がついていたのかもしれません。『赤線地帯』は、溝口の映画の頂点であり、映画史における最も重要な作品の一つですが、『雨月物語』や『近松物語』に比べると、映画表現の視覚的な面は直接的ではなく控えめです。しかし、その内容は、たとえ言葉がわからずともはっきりとよくわかりました。非常に繊細で、尚かつ心を打つ力強い方法で、演出がなされていたからです。そこに溝口の演出があり、本当の映画芸術があります。そうした演出方法は、意識せずに見ていたら気づかないようなものです。それは、若い頃には荒々しい勢いのある絵を描いていたが画家が、晩年になって無駄を削ぎ落とし、単純さの中に表現を落とし込んだようなものです……。もしかすると溝口は、それ以上と言えるかもしれません。言うなれば、晩年の北斎のようなものなのかもしれない。単なる単純さへと行き着くのではなくて――多くの芸術家や映画作家は歳を重ねるごとに疲れが見られ、無駄を削ぎ落とすことで、自身の芸術の核心に迫るからです――、溝口は自身の行なってきた演出の活力を内部へと押し込めながらも無駄を削ぎ落とし、尚かつ新たな表現へと挑戦しようとしていた。そうした彼の試みを、私は『赤線地帯』を初めて見た際に理解しました。そして、そのまま内容が深くわからないまま、繰り返し何度も見ることになったのです。十分に満足のいく物語の理解ができたのは六〇年代に入ってからでした。六〇年代に入ると、イギリスなどでも日本映画への注目が高まり、ヨーロッパにおいて日本映画の紹介がしっかりとなされるようになったからです。  私たちは、五〇年代の半ばから、溝口や小津の映画を断片的に見ていました。しかし、話の中身はよく説明されない状況が続いていたのです。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)

書籍

書籍名 赤線地帯