割れたグラス
アラン・マバンク著
山本 伸
酒にまつわる名言は、枚挙にいとまがない。古代ローマの格言に「酒のなかに真実あり」というのがある。それから二千年の時を経て、「人は酔えばその本性をさらけ出す」と語ったのはヘーゲルだった。また、フランク・シナトラが言ったとされる「酒は人間にとって最大の敵かも知れない。でも聖書には〈汝の敵を愛せよ〉と書かれている」という言葉は、酒の二面性を痛快な皮肉で突いた名言として、酒好きを大いに喜ばせたことだろう。まさに酒は、私たちの生活に深く染み込んだ、沈黙を破り真実を語らせる魔法の水なのである。
コンゴ出身のアラン・マバンクの小説『割れたグラス』もまた、酒場を舞台に語りと記憶の力を描いた作品である。物語の語り手は「割れたグラス」と呼ばれる元教師で、現在は「ツケ払いお断り」という酒場の常連客である。彼は他の常連たちの奇想天外な人生を聞き取り、書き記していく。そこにあるのは単なる酔客の戯言ではなく、貧困や孤独、制度の不在といったポストコロニアルな現実を背負った人びとの切実な声である。
句点のない読点だけの特徴的な文体による語りは、酩酊した語り手の意識の流れを奔放に映し出す。読者はあたかも酒場に居合わせ、その語りを耳にしているかのような臨場感と緊迫感に包まれる。
物語の核にあるのは、「語ること」、そして「記憶すること」の力である。周縁に生きる人びとの声を記録することで、歴史上の居場所を与えようとする営みは、アフリカ文学が担ってきた使命――沈黙を打ち破り、声なき者の存在を刻む――という行為と深く結びついている。
一方で、多彩な文学的引用にも満ちている。フランス語圏文学から西洋の古典、現代文学まで、幅広い文脈を自在に取り込み、それをパロディやオマージュとして再構成することで、植民地的遺産との知的な対話を試みている。そして、それはアフリカからの独自の文学的応答として響く。
笑いと悲しみが交錯する酒場の喧騒を背に、酔いのなかにこそ真実があるという古代の知恵を、マバンクは現代アフリカの語りにおいて蘇らせた。その文学的価値と歴史的意義は、同じくフランスの旧植民地出身で、語られなかった歴史や沈黙させられた記憶を掘り起こし、語り直すことで癒しと抵抗の手段を模索するハイチ出身のエドウィージ・ダンティカなどと並んで、世界文学の語りを刷新する原動力となっている。
ぜひグラスでも傾けながら、その語りに耳を澄ませてみてほしい。(桑田光平訳)(やまもと・しん=東海学園大学教授・英語圏カリブ文学)
★アラン・マバンク=コンゴ共和国生まれの作家。著書に『赤―青―白』(ブラック・アフリカ文学大賞)『ヤマアラシの回想』(ルノドー賞)『アフリカ文学講義』など。本書はフランコフォニー五大陸賞ほか数々の文学賞を受賞。一九六六年生。
書籍
書籍名 | 割れたグラス |
ISBN13 | 9784336076946 |
ISBN10 | 4336076944 |