- ジャンル:連載
- 著者/編者: ブルーノ・ラトゥール
- 評者: 御法川海
書評キャンパス
ブルーノ・ラトゥール『私たちはどこにいるのか』
御法川 海
本書は、パンデミック下のロックダウンという出来事を契機に、人類が惑星地球とどのように関わり直すべきかを問う哲学的省察である。フランツ・カフカの『変身』を発想のベースにしつつ、幽閉されることで初めて自分の居場所に気づくという逆説的な構図を提示し、生命が生存可能な地表面数キロの薄膜である地球生命圏を「クリティカルゾーン」と表現することで、私たち人類が人類自身の活動によって危機的状況に「ロックダウン」された存在であると自覚させる。だからこそ、初めて「私たちはどこにいるのか」という問いが実感を伴って迫ってくるのだ。
続く章では「『地球Earth』は固有名詞である」と主張し、「数ある惑星の一つを指すものではな」く、「現存するすべての存在の寄せ集めを示す」もの、つまり地球や我々人類、その他動植物を含めた生きとし生けるものすべての集合体がEarthであると、これまで〝当たり前〟と思われてきた地球像そのものを解体する。特に印象的なのは「『地球Earth』は女性名詞/『宇宙Universe』は男性名詞」という対比である。著者はフランス語文法の性区分(la Terre/l’Univers)を出発点に、抽象的で遠い「宇宙」と、具体的で関係的な「地球」とを対置する。私たちが本当にケアを注ぐべきは「発生に関わる関心事」を共有する女性名詞の「Earth」であると示す点に、本書の倫理的核心がある。ロックダウンという強制的停止を経て、重要なのは「生産」という人間だけの、人間だけによる、人間だけのための営みではなく、「発生」という全生命の、全生命による、全生命のための営みであると、著者は人間中心の経済や社会の前提を見直す。
また本書では、ロックダウンがいかに近代社会の矛盾を暴き出したかが論じられる。特に、国境があることで自立しているとみなされる所謂先進国などの国民国家が、立場の弱い国々などの外部テリトリーを搾取し続けることで存続するという非持続可能な構造は、国民国家の国民が資源は無限にあると錯覚し、Earthを乱獲し続ける。これにより、抽象的なグローバル空間から切り離され、自らが依存する具体的なテリトリー、つまり地図上の線引きではなく、生命同士の相互依存関係の網目へと再定義する必要に迫られたのだ。著者はこのテリトリーをめぐる認識の違いこそが、近代化の継続を信じる人々と大地への着地を目指す人々との間の新たな政治的対立なのだと喝破する。
そして著者は、近代の自己完結した個人像を、無数の微生物や他者から「影響を受けることを学ぶこと」で成り立つ「生きられる身体」として解き放つ。この身体観を社会へと拡張し、人間以外の多様な存在(エージェンシー)とも連携するEarthに根差した共同体、それこそが「新たな人民」なのだと論じる。最後に著者は、人類は「着地した」場所の固有性に応じ、「『新たな』生き物living thingsと混じり合った『新たな』人民peoplesを形成する」という自らを「変身」させる生き方を模索せよ、と力強く呼びかける。
著者は、絶望の中に立ち止まるのではなく、Earthに根ざし、Earthと共に未来を紡いで生きる道を指し示す。総じて本書は、人間/自然などの近代の二元論を乗り越え、人類がアースバウンドとして世界に「着地」し直すための思考の道具を提供するための思考の羅針盤である。(川村久美子訳)
★みのりかわ・かい=放送大学教養学部教養学科。趣味は散歩や小旅行、その時に考えた/感じたことを短歌や俳句で表現すること。人間と多種多様な他種との関係構築や、人間の本質に迫りたいと感じ、人類学を専門としている。
書籍
| 書籍名 | 私たちはどこにいるのか |
| ISBN13 | 9784794812698 |
| ISBN10 | 4794812698 |
