本居宣長・本居春庭・小津久足・小津安二郎 伊勢松阪の知の系譜
柏木 隆雄著
藤林 道夫
「伊勢松阪の知の系譜」という副題をみれば松阪の方はこの四人の名前を思い浮かべるのだろうか。いや、そんなことはなさそうだ。著者にしてこれまで久足については知らなかったと述べているのだから。それにしても松阪商人「小津党」げに恐るべし。まず商人を忌避して学者になった一枝の本居宣長から話は始まる。
本書は『夕刊三重』紙の連載がもとになっている。平易な語り口で次の話題を手繰り寄せていく趣向だ。でもさらりと素通りできないテーマもある。たとえば文字の問題である。日本語は独自の文字を作らず、漢字を利用した。しかし『万葉集』について語られる万葉仮名という漢字の表音化もそれほど完成されたものではなかったらしい。ひらがな、カタカナの成立は画期的なものではあっても、表記にはまだ曖昧さが付きまとった。和漢混淆文が生まれるのは鎌倉時代。現代風の文章が書かれるようになるには長い年月を経ているのである。
さて、宣長といえば『古事記伝』。『古事記』の文献学的、実証的研究である。契沖が『万葉集』で成したような仕事をと、賀茂真淵が宣長に勧めたという有名な「松阪の一夜」。しかし考えてみると、『万葉集』と同じく八世紀の書である『古事記』についてしっかりした解釈、解説がようやく江戸時代になって現れる。これぞ国学こそ日本最古の学問的自覚だったといわれる所以だろうか。昼は小児科医として働き、夜は『源氏物語』や『古今和歌集』の講義をしながらこうした膨大な研究を成し遂げ、歌を詠み、旅行記も物している宣長。驚くべき人物である。
次に登場するのは本居春庭。宣長の長男である。父の背を見て育った典型的な孝行息子。しかし、親の学問を継承するに足るこの優秀な息子を不幸が襲う。眼病を患い、治療の甲斐もなく失明してしまうのである。一時は鍼医も志したが、結局は父と同じく学問の道、さらに歌の道に身を投じることになる。日本語における動詞の活用を解明し、母音と子音を並べ立て五十音にまとめるなど、宣長の研究を推し進めた彼の業績は現在も高く評価されているという。
いよいよ小津久足である。というのも、著者さえその名を知らなかったこの人物が実は一番本書のスペースを占めているからである。予想を超えて次々と書き足されたことが窺われる。それほどに魅力的な男なのだ。春庭に弟子入りしたとき久足は十五歳。ただ宣長や春庭と異なるのは、彼が正統な松阪商人を継いでいたことである。干鰯の商いは彼の時代に絶頂を迎えていた。
すべてに秀でた大金持ち。二十四歳で六十一歳の曲亭馬琴を訪ねた頃のふたりの様子からは、生意気盛りの彼が偲ばれる。そしてふたりの関係は奇妙な形で深まっていく。才能に溢れた若きパトロンでもあるこの友人を馬琴は「大才子」と呼んだ。ここに文字通りの意味ではない、いくらか屈折した馬琴の皮肉を読み取るのは著者の慧眼といえよう。
しかしなんといっても興味深いのは、久足が徐々に宣長や春庭の道から外れ、さらには批判、非難を繰り返していくことである。そこには規範を求める学者に対する飽き足りなさ、彼の風流人としての誇りの迸りがみられる。著者は「創作と批評の深い溝」とも捉えている。馬琴との接近により江戸民衆の活力を知った久足は、漢学を否定し、外来の要素を排除する閉鎖的な本居国学に叛旗を翻したのであろう。しかし彼は、膨大な数の歌や紀行文を残しながら、自ら公にすることはなかった。ブランメルにも比すべき稀代のダンディかも。
久足がさらなる言葉の深みを極めようとした和歌という文化。和歌にその意味を問うのは愚であろう。言葉の奥行きを感じつつその芳香を味わう文雅の嗜み。小津安二郎の映像作品にもこれと通じるものがありはしないか。代表作『東京物語』に登場する人々、一見存在感は希薄だ。しかし小津の映像の深みにはまればその奥行きと余韻が広がっていく。これこそ小津映画の醍醐味であろう。
小津安二郎は小津久足の異母弟の孫。久足は大伯父にあたる。生まれは東京深川だが、十歳で家族とともに松阪に移り、東京に戻るまでの十年間を過ごしている。宣長、春庭、久足という文化の流れを意識していたかはわからない。ただ、「小津党」の末裔であることは自覚していただろう。
本書では小津の主要作品の簡潔な解説を読むことができる。通して感じる中でひとつだけ挙げておくとすれば、その清潔感である。彼の実人生は戦争に翻弄され続けた。しかし戦争の悲惨をリアルに描くことはなかった。夫の復員を待つ妻の過ちや戦争未亡人の在り方など、否応なく戦争の影が漂うことはあっても、血に汚れた悪臭とは無縁である。それは空にはためくあの洗濯物に象徴されているかのようだ。この気高さ。「小津党」の極めたダンディスムの粋であろう。
著者は日本におけるバルザック研究の泰斗。もちろん松阪出身。ジャンルを超えた著作で知られる。彼にとっては思想家も哲学者も「文学」をしているらしい。説明に力が入っても、知に対しては至って謙虚。わかったかと思ったところですり抜ける知の妙を十分に心得ている。結論を急ぐ世の中、遠回りを厭わずぜひ寄り道をお勧めしたい好著である。(ふじばやし・みちお=フランス文学)
★かしわぎ・たかお=大阪大学・大手前大学名誉教授・フランス文学。著書に『こう読めば面白い! フランス流日本文学』『バルザック詳説 『人間喜劇』解読のすすめ』など。一九四四年生。