身近な人を自死で失うということ
筧 智子著
小西 真理子
大切な人との死別。それは多くの人にとって最も辛い出来事だろう。人びとは二度と会えない愛する人を失った悲しみに向き合うなかで「喪の作業」に従事する。しかし、その死別が「自死」によるものだとしたら――。自死遺族が抱える悲嘆が「黙される悲嘆」と表現されることに象徴的なように、そこには独特の含みがもたらされることになる。
本書は自死遺族等20人の語りを中心としつつ、彼らが置かれている状況や心情についての理解が深められることを願って執筆されたものである。この願いは著者のみならず、本書に収録されている語り手による「必要な人に届けてください」(226項)という言葉からも感じ取れる。
著者が述べるように、自死への偏見は根強く、「自殺の事実やその悲嘆を恥ずべきものと感じ、表現できずにいる人は少なくない」(34頁)。通常であれば通夜や葬儀などの「喪の儀式」で行われるはずである故人の死へに対する悼みの共有が、自死の場合、積極的にはなされなくなってしまう。他方、自死遺族等には、苦しみの共有の押し売りもされやすい。ニーズに反する言葉や贈り物が届けられることで、より心を閉ざしてしまう場合もあるということが、遺族等の語りからは想像される。さらに、このような無理解は親族内で生じることもある。遺族のなかには親族からその悼みを否定され、苦しんだ人もいる。
外的な理由によるものに加え、遺族等は内的な苦しみも抱えることになる。死者に対して「なぜ死んでしまったのか」と問うけれど、その問いに応えられる人はもういない。さらに、「亡くなった人と物理的・心理的距離が近かった人、亡くなる直前まで一緒に過ごしていた人、故人の苦しみをある程度理解していた人ほど、「あのときの言葉が、態度が引き金になったのか」「自分が〇〇していたら、こうはならなかったんじゃないか」「できることがあったはずなのに、してあげられなかった」などの思いにさいなまれる」(153頁)。
親友の自死を発見した男性・佐藤さん(仮名)は、その前日に相手の家で面会していた。「実は死にたいんだ」と打ち明けられていた。帰ろうとしたとき「あと三十分いて」と言われてもうしばらく過ごし、「明日、また絶対に来て」と告げられていた。翌日、玄関のベルを押しても応答はなく、いつもは施錠されているドアが開いていた。佐藤さんは「私は帰ってしまった。帰らずにずっと一緒にいてあげたら死ななかったですよね。お父さんやお母さんが来るまでとか、息子さんが戻ってくるまで一緒にいてあげていたら死ななかったのに」(142頁)と述べる。「最後まで一緒にいてくれてありがたかった」と言ってくれる息子さんに「とんでもない」と思ってしまう。佐藤さんはこの気持ちを話して共有することで、少し楽になったという。
こうした語りからは、幅広い意味での自死遺族らが、その語り先を必要としているということが切実なものとして伝わってくる。本書には、大切な人を自死で亡くした遺族の集いの支援者等の語りも紹介されている。その語りは、自死遺族等の語りの受け入れ先がそこにあるのではないかという期待を持たせるものである。それだけでなく本書には、「自死遺族等を支えるさまざまな場」として、全国各地の自助グループやサポートグループ、宗教的背景をもつケアの場などの団体名・対象者・問い合せ先・ウェブサイトなどの情報が複数紹介されている。本書では、支援者の無理解な発言の指摘が何度も行われている。そのうえでこのような情報提供がされていることには、自死遺族を中心に据えようとする著者の一貫した態度を垣間見ることができる。
著者がまとめるように、「自死者や自死の事実を受け入れたとしても、喪失の悲しみは消えるものではない」。実際に多くの遺族が「自死の悲しみはなくならず、持ち続けるしかない」と語った(177頁)。著者が紹介する「分かち合いの場」や「ケアの場」のなかには、ある自死遺族にとっての、そうした悲しみを持ち続けることを受けとめてくれる場所があるかもしれない。本書を読んだ人のなかには、そこで紹介された語りに自身が抱える行き場のない思いと共鳴するものを見出し、自らでは語り難かった苦しみの居場所を発見する人がいるかもしれない。そういう人たちにこそ届いてほしい本である。(こにし・まりこ=大阪大学准教授・臨床哲学・倫理学)
★かけひ・ともこ=上智大学グリーフケア研究所客員研究員・死生学・グリーフケア・スピリチュアルケア。グリーフケアのボランティア団体「グリーフサポートたま」代表。一九六五年生。
書籍
書籍名 | 身近な人を自死で失うということ |
ISBN13 | 9784787235626 |
ISBN10 | 4787235621 |