シェイクスピアと宝塚
竹村 はるみ著
小野 俊太郎
鹿島茂による『日本が生んだ偉大なる経営イノベーター小林一三』を読むと、宝塚温泉で不振に終わった室内プールの利用法として少女歌劇団が構想された、と知り驚かされる。空のプールを客席に改築し、集客する目玉となる興行として考えられたのだ。温泉と観劇のセットならば、健康ランドの大衆演劇もあるし、イギリスの温泉保養地バースには立派なロイヤルシアターが建ち、シェイクスピア劇が上演されてきた。著者は、テムズ河畔のグローブ座と武庫川河畔の宝塚大劇場の並行関係を指摘するが、むしろ知的温泉に浸かってリフレッシュできる好著である。
全体で、喜劇から五作品、悲劇から六作品、最後にシェイクスピア自身を扱った一作品を取り上げている。篤実なシェイクスピア学者らしく劇の仕掛けを確認したうえで、宝塚の演目に向かう。こうして読者は、「男性同士の絆」「悲劇の条件」「カタルシス」といった基本を教わりつつ、大地真央と黒木瞳の同時退団を「添い遂げ退団」と呼ぶのを知れるし、作品概要から配役発表そして本公演までをそわそわしながら待つファンの気持ちも細かく理解できるのだ。
男役の重要性については、創設者小林一三が断言していたくらいで宝塚の魅力の中核となる。「男役は背中で魅せる」といったファン心理を隠さないのが、本書のよさでもある。オセローを「カッコいい」とほめ、返す刀でハムレットを「こじらせキャラ」と腐していた。前線で戦う将軍のほうが、優柔不断な王子より魅力的なのは仕方がない。しかも、嫉妬に崩れていくオセローよりマクベスのほうがもっと好きだが、宝塚版がないので論じられない、と著者は不満をもらす。
また、『テンペスト』の香港ハードボイルド版『TEMPEST 吹き抜ける九龍』で、ミランダとファーディナンドによる最後のデュエットを、原作には到底ない「ロマンスが供給される」と絶賛するとき、もはやシェイクスピア学者を離れてしまう。「シェイクスピアを研究していますが、舞台で見るのは宝塚が一〇〇倍好きです」という本音が出ていて好ましい。じつは内側に宝塚基準をもっているからこそ、著者はシェイクスピアを過度に神格化せずに冷静に扱えている。
宝塚での演目は、シェイクスピアそのままではなく、アダプテーションだが、『キス・ミー・ケイト』やフランス発のミュージカル版『ロミオとジュリエット』など海外のものだけでなく、オリジナルを生む力をもつ点が明らかとなる。シェイクスピアの劇作と同じように、団員とりわけトップスターへの当て込みが中心にくる。評者は『PUCK』を龍真咲の再演でしか観ていないが、初演で涼風真世という一点を目指して、『真夏の夜の夢』とは配役も展開も大きく改変した若き小池修一郎の野心も納得できた。やはり感心した記憶をもつ『冬物語』を見事に時代物に仕立て直した児玉明子という才能を評価すべきという意見に同調するし、小池だけでなく、正塚晴彦の仕事の重要性に気づかされたのも収穫だった。
ただし、小池や正塚が担った男役のコスプレ物からスーツ物への変化は、宝塚単独の現象に見えて、もっと広い文脈で語れる気もする。特撮ドラマの「平成仮面ライダーシリーズ」の主役が、ジュノンボーイやモデル出身のイケメン俳優たちになったように、世紀の転換を挟んだ「男らしさ」の表現の変化が底流にありそうだ。そうした配役も放送を子どもといっしょに観る若い母親たちを意識した結果とされている。保守的に見えて、社会のジェンダー意識や規範の変化を先取りする側面が宝塚にあるのではないか。
その点で、最近上演されていないので取り上げられなかった『ヴェニスの商人』が重要だろう。巻末年表にあるように戦後まもなく『ヴェネチア物語』として、月組の久慈あさみと淡島千景、さらに雪組の春日野八千代と乙羽信子によって演じられた(レジェンドや映画で活躍した名女優たち!)。宝塚に住んでいた手塚治虫が観劇をし、後年『リボンの騎士』を生むヒントとなった。手塚作品という土台の上に池田理代子が『ベルサイユのばら』を生み出したのだから、シェイクスピアと宝塚の結合は、日本の少女マンガにおけるジェンダーの描き方に多大なインパクトを与えたのである。『ベルばら』が宝塚の定番となったのは原点回帰でしかない。
著者が「家父長主義から逸脱する」と力説するロマンティック・コメディ最大のヒロインはやはりポーシャなのだ。しかも、シャイロックを女性が演じることに現代性もありえる。冒頭で触れたバースの劇場で、女優のトレイシー=アン・オーバーマンがシャイロックを演じた公演が本年二月にあったばかりである。ぜひ宝塚に『ヴェニスの商人』に再チャレンジしてもらいたい――そんな夢想を抱かせてくれる本だった。シェイクスピア愛と宝塚愛のマリアージュとして、どちらのファンにも、まして両方に興味関心があればなおのこと、頁のなかに舞台とはまた別の至福の時が待っている。(おの・しゅんたろう=文芸評論家)
★たけむら・はるみ=立命館大学教授・イギリス文学。著書に『グロリアーナの祝祭 エリザベス一世の文学的表象』『シェイクスピアと演劇文化』(共著)など。一九六八年生。
書籍
書籍名 | シェイクスピアと宝塚 |
ISBN13 | 9784469246780 |
ISBN10 | 4469246786 |