行為する意識
吉田 正俊・田口 茂著
稲垣 諭
意識とは何であるか?その存在身分や神経学的条件、進化的役割に関していまだ分からないことが多い。本書は神経学者と現象学者の二人が、オートポイエーシス理論の創始者のひとりF・ヴァレラによって提案された「神経現象学」を新たに展開させることで意識の問いに真正面から応えようとする。
著者たちは意識体験と神経の相関を問題にするだけではこの謎には迫れない、むしろヴァレラが提案した「エナクティヴィズム」のアイデアを取り入れることが重要であるという。一方で意識は脳の中に埋め込まれてはいないし、他方で世界は意識に観念的に飲み込まれてしまうのでもない。そうではなく世界と意識は認識するに先立って「行為」によって相互に生み出され、関わりあっている。ここがen+ actというエナクティヴィズムの核心である。
ただしこれだけだと意識を科学的手法によって仮説化し、検証するにはまだ足りない。そこで著者らはまず生物学的自律性の仕組みとしてのオートポイエーシス・システムの説明を行う。その際本書では入門書と銘打っている通り、盲点や変化盲、逆さ眼鏡、無意識的推論、感覚運動随伴性といった最新の意識探究の成果が網羅的に紹介され、エナクティヴィズムに辿り着くまでにさまざまな関連知見に触れられる。
そして何よりも本書の特色は、生物学や神経科学で注目されている「予測」という働きからエナクトする主体のあり方を特定することにある。予測とは到来していない未来の方から現在の知覚を促し、構成する働きである。本書は、予測誤差を最小化するフリンストンの「自由エネルギー原理」に基づきながら生物というものを徹頭徹尾予測の観点から明らかにする。
本書の意識の定義を端的にいえば「生物学的自律性+予測」ということになる。ただしこれらは観察者的な見方にすぎない。そこで重要になるのが現象学的なアプローチなのであるが、本書では観察者による観察を「観察的媒介」として定め、それから「行為的媒介」というものを区別する。この「行為的媒介」が本書全体の肝となるのだが、これを通して意識は、観察できない外の世界と関わっている。つまり「生物学的自律性+予測」としての意識は「行為的媒介」によって外の世界に関わりながら、同時に自らの安定性を予測によって生み出すサイクルを形成する。
こうした構造的な説明はあくまでも現段階の仮説である。実際に著者らは「記憶」や「情動」といった意識主体の経験に必要なものの解明がいまだ欠けているとも正直に述べる。つまり本書は、「予測」と「行為的媒介」という二つの賭け金を手にして、意識研究の第一歩を踏み出す決意表明であり、これらの概念が今後どれだけ検証テストに耐えられるかが試されることになるだろう。
私自身、現象学とオートポイエーシス理論を活用することで、中枢神経系を損傷した人々のリハビリテーションの臨床場面で同様の問いを追究してきたが、神経系は本当に「予測」中心に組み立てられているのかには若干の疑問が残る。どんなに予測的な訓練をしても、行為が創出されない局面には何度もぶつかるし、そもそも個々の予測や予測外れの水準ではなく、予測の生成モデル自体が発達したり、創出したりすることが予測に基づいて行われるわけでもないだろう。
本書では、エナクティヴィズムを「知覚的に導かれた行為」として理解することで、一見、行為を知覚に従属させるような見方を取るが、そのメリットとデメリットは当然あると思われる。これと関連して、自然科学的説明の大部分では「行動」が多用されるのに対して「行為的媒介」の説明になると「行為」が多用されていて、それらが果たして同一のものなのかも気になるところである。また「媒介」という概念は哲学者の田辺元によるものであるが、「行為的媒介」によって意識はいつでも外とつながっているとあまりに単純に想定されているようにも見え、哲学的にはいささか物足りなさを感じたことも否めない。「行為からの産出」というエナクトには、予測に回収しきれない豊穣な可能性があるようにも思われ、それをどう展開していくのか、著者らの今後の探究が楽しみである。(いながき・さとし=東洋大学教授・哲学)
★よしだ・まさとし=北海道大学教授・神経生理学。盲視、半側空間無視、統合失調症のヒトおよび動物モデルを対象として意識の問題を研究。
★たぐち・しげる=北海道大学大学院教授・西洋近現代哲学、現象学、近代日本哲学。著書に『現象学という思考』など。
書籍
書籍名 | 行為する意識 |
ISBN13 | 9784791777150 |
ISBN10 | 4791777158 |