2025/10/10号 5面

「「作家主義」の出発点にあるもの」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)409(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 409 「作家主義」の出発点にあるもの  JD 映画に限らず、本や絵画など、扱われているテーマは、必ずしも表現されているものと一致することはありません。例えばチャップリンの映画を考えてみてください。時には、彼は悲劇を作ることがありました。しかしチャップリンの映画は、喜劇です。『パリの女性』や『ライムライト』といった作品は悲劇的ではありますが、チャップリンの映画が持つ優雅さのおかげで喜劇になっています。つまり、そこで実際に表現されているのは、チャップリンの映画であり、物語のジャンル区分や映画の技術的な問題に還元できるものではないのです。チャップリンの映画は、彼の持つ感性と当時の映画表現が融合した結果として生み出されています。画家の作品のように、完全にチャップリンの作品だとは言えませんが、制作スタッフら映画会社の作ったものだとも言えません。しかし…。  HK ルネッサンス期の画家のアトリエの作品のようなものだったということでしょうか。つまり、画家が制作を主導していながらも、全体は複数の人の手によって仕上げられる。  JD その通り。「舞台演出家」という言葉の意味は、それに近いですね。つまり、舞台全体を評価し位置づけていく人のことです。他にも「映画監督」など様々な呼称はありますが、私たちは、映画を統括する人を「映画作家」と呼んでいます。根本的なところでは、その考え方が商品としての映画を見る人々と大きく異なります。私たちは、映画をヴィクトル・ユゴーやバルザックの小説の如く考えました。それが「作家主義」の出発点です。小説だけではなく、モリエールやシェイクスピアらの戯曲、ドラクロワの絵画についても同様に考えることができます。作品の背後には作家がいる。作品を通じて表現されているのは、作家の考えである。そこに表現されているものは、当然ながら複合的なものとなります。社会的な問題を反映することもあれば、歴史や映画史との関わりを持つこともある。映画制作にまつわる技術的な問題や経済的な問題も当然関係してきます。映画の場合、小説とは異なり、そうした外的要因も非常に強く関わってくるのです。映画作家が想定した通りに実現された映画は、ほぼ確実に存在していないと言えるでしょう。映画は複合的な企ての芸術なので、どうしても外的な問題に対処せざるを得ません。技術面に関わるスタッフとの口論もあるかもしれませんし、撮影現場における予期しない出来事もあるかもしれません。映画は、現実を相手に撮影をしなければいけないので、そうした予期しない出来事がいつどこにでも生じます。映画が他の芸術よりも面白い点があるとしたら、より現実の生に近い芸術だからです。つまり、実際の生を相手にして、記録して、さらには加工して、永続化させる芸術が映画なのです。それが、他の芸術との生に向き合うプロセスに関る大きな違いです。絵画や小説の場合、映画よりも作者というフィルターがより強く入り込みます。映画作家の仕事とは、予期しない偶然をどれだけまとめ上げることができるのかというところにもあります。しかしながら、最近の映画は、その映画の本質を忘れています。以前よりも小説に近い作りになっている。つまり、脚本やストーリーボードが重視されてしまっているということです。  HK 前もって「脚本」を書かないゴダールやリヴェットの映画とは全く異なりますね。フェリーニも自身のアイデアとなるイラストを元に映画を作っていました。  JD ロメールも脚本らしい脚本はありませんでした。彼は、本当に隅々まで考えられ書き込まれた「脚本」を書いていました。言うなれば、彼の手元には自ら書いた「中編小説」のようなものがあった。それは所謂「脚本」とは異なります。彼には、その脚本をいつでも捨てられる余裕がありました。ロメールは、映画とは何かをよくわかっている映画作家だった。映画とは抑えつけるようなものではない。その反対に、ある程度の柔軟さにおいてこそ作られるということをとてもよく理解していたのです。彼は撮影現場において、カメラマンや役者とコミュニケーションをとりながら、そのやり取りを映画の中に入れ込めるように、脚本にある程度の余白を設けていました。そうでありながらも、物語の筋や撮影場所などについては、前もってしっかりと考えられていました。  〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)