2025/07/11号 6面

「国語」と出会いなおす

矢野利裕著『「国語」と出会いなおす』(井上功太郎)
「国語」と出会いなおす 矢野 利裕著 井上 功太郎  「国語」に、どのようなイメージをもっているだろうか。漢字、作文、物語……。そのあたりのことは、ぱっと浮かんでくる。だが、小学校・中学校・高校を通じて、「国語」に多くの時間を費やしてきたわりに、そのイメージはどこか貧弱なところがある。さらに、「国語」の授業から何を学んだのかと問われれば、ほとんどの人が答えに窮してしまう。本書は、そんな「国語」の輪郭をはっきりさせ、「国語」では何を学んだのかを教えてくれる。  批評家、現役の国語教師という肩書の矢野利裕によって書かれた本書は、著者ならではの主張がみられる。例えば、これまで保守的であるとか、道徳的であるとかいう形で批判されてきた「国語」の「教科書」について、「文学研究の成果や議論を反映しようという態度」で実際には作られており、授業もそのような意識で行われていると主張する。また、「入試問題」については、「ある限定的な局面における相対的な《正解》をこしらえること」が問題を作る上での原則だと言い、「文学」側に対して理解を求めている。さらに、「文学」からも「国語」からも評判のよくない「文学史」については、教師としての感覚から1970年代以降を加えた「文学史」を再興する必要があると主張する。  ただ、こうして主張のいくつかを並べると、「文学」側の「国語」批判に対して、「国語」側から反論を試みているだけのようにみえる。だが、これらの主張は「「国語」にたずさわりながら「国語」そのものについて問いなおす」という批評的な態度の結果として提出されたものであり、いたずらに批判への反論を目指しているのではない。そのことは、本書の展開を追ってもらえれば、明らかである。  しかし、これまでのように「教科書」「入試問題」などを議論しているだけでは、「国語」を学ぶことの意義を明らかにすることはできない。「文学」を「国語」で学ぶ意義を明らかにするためには、現実に行われている「文学」の授業から考えていく必要がある。これまで「文学」側は、自己の受けてきた経験から感覚的に授業を捉えてきたし、「国語」側は、その多くを語ってこなかったところがある。本書では、「国語」の授業の実際と授業をする教師の思考が、それなりの紙幅を割いて語られている。  著者は、授業を「共同性」という概念から説明しようとする。「文学」の授業が《同じものを読んでいる》という状態になっていることから出発し、こうした感覚は「物語」の授業で物語構造の把握と登場人物への共感を繰り返し行うなかで身についていると言う。そして、こうした共同性があることで、属性や立場とは関係なしに、コミュニケーションができるようになっているのだと主張する。先行研究を引き合いに出しながら語られる授業への著者の見解は、「文学」を「国語」で学ぶことの意義とは何かということの答えの一つとして、それなりに説得力をもつものであろう。  本書の末尾には、入試問題の出題者である著者と、入試問題に使われた作品の作者である滝口悠生の対談が収められる。実際の入試問題を間に挟んだ一風変わった対談も、ぜひ読んでほしいのだが、そのなかで「問題を作る側の事情や真理みたいなものをおおむね理解した」という滝口の発言がみられる。この発言は、「文学」と「国語」のコミュニケーションが、十分に行われてこなかったことを間接的に表すものである。考えてみれば、本書のように、「文学」にも目を配りつつ、インサイダーとして「国語」側の意見を表明したものは、ほとんどみられなかった。その理由の一つに、外側からの批判に対して、誤解があっても、それを解かないまま、ただ耐えてしまうという「国語」の性格があるように思われる。こうした「国語」の性格は、元国語教師で、今は大学で教えている私にも、しっかりと引き継がれてしまっている。これまで「文学」側からの批判に出会ったとき、自分の意見を言わないことで、衝突を避けてきた。だが伝えてみれば、対談における滝口のように、あっさりと理解してもらえるものかもしれない。これからは、きちんと「国語」側の言い分を伝えよう、そう本書には思わされた。(いのうえ・こうたろう=美作大学生活科学部児童学科准教授・国語教育)  ★やの・としひろ=国語教員として中高一貫校に勤務するかたわら、文芸・音楽を中心に批評活動を行う。著書に『学校するからだ』『今日よりもマシな明日 文学芸能論』『ジャニーズと日本』など。一九八三年生。

書籍

書籍名 「国語」と出会いなおす
ISBN13 978-4-8459-2425-7