絵本戦争
堂本 かおる著
矢倉 喬士
アメリカにおける出版物への検閲は4世紀にわたる長い歴史を持っている。1991年から言論の自由のために活動する機関 Freedom Forum Instituteによれば、北アメリカでの最初の検閲と発禁にあたる事件は1650年。マサチューセッツ州スプリングフィールドの建設業者で、毛皮商人でもあったウィリアム・ピンチョンがピューリタニズムの予定説に対して異端的解釈を行ったパンフレット『我等の救済のありがたき代償』が焚書の扱いを受けた。アメリカ合衆国としての最初の検閲と発禁は、1821年にマサチューセッツ州ボストンでジョン・クレアランドの小説『ファニー・ヒル』が、イギリスのコモン・ローに基づいて猥雑文書と判断され、有罪の処分が下ったことが始まりである。そこから南北戦争前夜にかけて奴隷制と先住民に関する文章に検閲がかかったことが合衆国の特徴としつつも、基本的にはヴィクトリアニズムをアメリカで実践するような検閲体制の時期が続く。
20世紀後半の冷戦期ではマッカーシズムと赤狩りによる共産圏思想関連の取締りが行われ、21世紀になると対テロ戦争によってイスラム教や国民(家族)の一体感を阻害する内容への危険意識が高まり、2010年代にはソーシャルメディアの普及によって民衆による監視が力を持つ時代になった。堂本かおるの『絵本戦争 禁書されるアメリカの未来』は、このようなアメリカの検閲と発禁の歴史的記録に最新の報告を付け加えるものである。
本書が生まれるに至った背景として、著者は2020年代に入ってからの禁書要求件数の急増に言及している。禁書運動と呼べるものは過去にもあったが、現在のように一度に数十冊以上がまとめて禁書申請され、2023-2024年度に4000冊以上が禁書処分になるほどの苛烈さを伴ってはいなかった。まるで書籍をめぐる全面戦争といった状況のなかでも、子どもたちが触れる機会の多いヤングアダルト書籍への禁書申請率が最も高いことから、本書は絵本に焦点を当て、「絵本戦争」の名を冠することとなった。また、一体誰が大量の禁書申請を出しているのかというのも重要な問題だ。アメリカの各地で禁書を推進する団体はあれど、規模と影響力において最大を誇るのは2021年にフロリダ州で設立された「自由を求めるママたち(Moms for Liberty)」である。彼らは、子どもの教育方針を決めるのは政府や学校ではなく「親の権利」であると主張し、人種差別は法律や社会制度に組み込まれているという考え方(批判的人種理論)や、異性愛主義の枠組みを離れた多様な性のあり方から子どもを遠ざける目的で禁書運動を行う。この運動は保守派の親たちに伝播し、団体の設立から3年後には全米に310の支部を持つ会員数13万人の巨大組織になったのだった。
それでは禁書処分になった書籍を具体的に紹介しよう。本書は8章構成で、順に「黒人」「LGBTQ」「女性」「障害」「ラティーノ/ヒスパニック」「アジア系」「イスラム教徒」「アメリカ先住民」と題されている。この8つの章題がそのまま、禁書申請を行う保守層が脅威に感じているもの、あるいは、力を持ってもらっては困るものであると考えて良いだろう。オスのペンギン2羽が親となるAnd Tango Makes Three(『タンタンタンゴはパパふたり』としてポット出版より邦訳有り)、人魚になりたくて仮装する男の子を描くJulián Is a Mermaid(『ジュリアンはマーメイド』としてサウザンブックス社より邦訳有り)、識字障害を持つ少年が物語を語ることで自信を持ち始めるAaron Slater,Illustrator(『ぼくの こころが うたいだす!』として絵本塾出版より邦訳有り)、カナダに住むパキスタン系イスラム教徒の一家が周囲の文化に適合しつつ家族の絆を深めるBig Red Lollipop(『ぺろぺろキャンディー』としてさ・え・ら書房より邦訳有り)、といった書籍が禁書の憂き目に遭っている。ここで紹介した書籍は、邦訳出版を奨励する意味も込めていずれも邦訳があるものを選んだが、『絵本戦争』が言及する書籍は未邦訳のものが多く、日本の読者にとって本書を通じてしか出会えない魅力的な書籍に満ちている。
さて、ここまでに2020年代以降に激化した禁書運動の様相と、具体的に禁書処分となった書籍をいくつか見てきたが、『絵本戦争』の最も優れた分析は禁書申請の空虚さを喝破した点にある。著者が禁書絵本を大量に読んだ結果、精査されずに禁書になった書籍が多いことが判明する。表紙に黒人の幼児が描かれているだけで黒人文化の描写が存在しない本がなぜか禁書申請を受けていたり、逆に、同性愛や移民問題に切り込んだ書籍がなぜか禁書申請を受けていないこともある。禁書推進派は往々にして、実際に書籍を読んで活動を行っているわけではないのだ。
このように、書籍の検証を経ずして激化する禁書運動に対する最もラディカルな抵抗は、「実際に読むこと」である。実際に書籍を読む行為を通して、「人種」「宗教」「ジェンダー」「道徳」といったラベルでは整理も分別もできない瞬間に出会うこと。それこそが党派性を超えるための鍵なのだ。このとき、読む対象は「絵本戦争」における味方側の書籍でなくとも構わない。味方側の書籍を読む運動は、依然として戦争を継続し、子どもたちを兵士として訓練し、徴兵する試みに留まる可能性がある。加えて、敵方と思われる書籍を完全に排除するのでは、実際に読まずして禁書運動を行う者たちと同じであるだけでなく、当該書籍の矛盾や誤りを指摘したり、敵だと思っていた人々との思わぬ共通点に気づく契機も失うことになるだろう。
禁書への抵抗は、禁書を読むことというよりも、読むことそのものである。本書は「兵士」を「読者」に変える可能性を秘めた、価値ある一冊だ。(やぐら・たかし=大阪大学特任講師・翻訳者・英文学)
★どうもと・かおる=ニューヨーク・ハーレム在住のライター。ブラックカルチャー、移民/エスニックカルチャー、アメリカ社会事情全般について雑誌、新聞、ウェブに執筆。
書籍
書籍名 | 絵本戦争 |