江戸の食商い
権代 美重子著
川添 裕
古典落語には、よく食べ物が出てくる。
ご存じ『時そば』をはじめ、『そば清』に『蕎麦の殿様』もある。扇子を箸に見立て蕎麦を食べるしぐさは、落語家がそれらしくできなければいけない基本動作のひとつである。鰻なら『鰻の幇間』が有名で、三大名人の五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、六代目三遊亭円生が、それぞれ個性的に演じている。『王子の狐』では、美女に化けた狐が料理屋の扇屋に上がり込み、天麩羅や刺身で気持ちよく酒を飲んでいるうちに寝入ってしまう。狐はだましていたつもりの男にだまされ、この悪い奴が玉子焼き(厚焼き玉子)まで土産に包ませて、勘定はあとで女の方が払うと言って先に帰ってしまうのだ。
あるいはまた『酢豆腐』のような、食通ならぬ「食の半可通」を笑い者にしてこき下ろす落語まであるし、さらに酒をからませれば、『二番煎じ』をはじめとして、『青菜』『禁酒番屋』『猫の災難』『試し酒』『居酒屋』等々とあって、落語は酒食の宝庫なのである。
この本に刺激されてまず頭に浮かんだのは、そうした古典落語に出てくる食のイメージであった。それは本書のタイトルがスタティック(静的)に「江戸の食」ではなく、「江戸の食商い」と何歩かダイナミック(動的)に生きた文化や生きた経済の方へ踏み込んでいることと関係しており、その点が本書の特徴だと思う。どうその食が商われ、それがどう人びとに食されるのかという社会と文化の総体であり、変な言い方だが、「食のパフォーマンス」とか、人びとの視線のなかの「パフォーミングな食文化」といった感覚の切り口と言えるだろう。右は私の言い方であり、著者自身は、江戸の食文化の特徴は「外食の普及」と「娯楽化」にあると指摘していて、家ではない他人の目がある場所で、腹を満たすためだけではない楽しみとして食に接するようになった、というのがポイントである。
ただ、本書はいきなりそこに向かうわけではなく、日常生活における米の主食化、魚河岸や青物市場の整備、醤油や砂糖といった調味料の普及など、基本の状況を押さえたうえで、叙述を展開していく。屋台見世での外食商いに関しては、享保年間(一七一六―一七三六)あたりから広がっていったとしている。蕎麦、鰻蒲焼、天麩羅、寿司の屋台であり、以後、居酒屋なども登場した。
「食のパフォーマンス」「パフォーミングな食文化」という観点から、私にとって興味深かったのは、「第8章 江戸の飴売り」「第9章 話題の看板娘、引き札、大道芸」「第11章 歌舞伎と食商い」「第12章 食で遊ぶ」といった諸章であり、食そのもののみならず、これら食の周辺文化、食をめぐる行動文化まできちんと視野に入れている点は、本書の優れたところである。いや、と言うより、こうした周辺まで含めなければ、食について語ったことにならないというのが著者のスタンスのはずで、そこに好感が持てた。評者はかつて朝倉無声『見世物研究 姉妹編』(平凡社、一九九二)を編纂した際、無声による大道飴売り・菓子売り・薬売り・物売り等をめぐる文章を集めて採録したが、そのことも懐かしく思い出された。江戸の街なかでの彼らの呼び声も、ひとつの文化であり遊び心の発露であった。
それにしても思うのは、こうした周辺文化の衰退ということで、私が幼い頃には横浜の街なかにもまだあった、ラッパを吹く豆腐売りや屋台をひくおでん屋、あるいは山下公園沿いに並んだ屋台見世はすっかりなくなってしまった。また、歌舞伎座でも寄席でも、今は上演中に弁当を食べたり酒を飲んだりすることは実質上できない。できるのは休憩時間だけである。江戸時代の浮世絵(劇場図)をみれば上演中に飲み食いをしているし、「弁当幕」(あまり重要ではない弁当を食べるのに向いた一幕)ということばさえ存在したわけである。そんな風に、食の周辺文化をめぐる価値観を振り返らせてくれる本でもある。(かわぞえ・ゆう=文化史家・日本文化史家)
★ごんだい・みえこ=財団法人日本交通公社嘱託講師・横浜商科大学・文教大学・高崎経済大学兼任講師・ホスピタリティ論・アーバンツーリズム。著書に『日本のお弁当文化』、共著に『新現代観光総論』など。
書籍
書籍名 | 江戸の食商い |
ISBN13 | 9784588300547 |
ISBN10 | 4588300547 |