小ぎれいな映画を作ることが主流に
ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 401
HK アルモドバルが、テーマとして同性愛を直接的に取り扱っている。それはファスビンダーのように、ということでしょうか?
JD ファスビンダーよりも直接的にです。ファスビンダーにおける同性愛のテーマは、戦後のドイツや社会が抱えていた問題の一つです。そして、彼個人に関わる問題の一つでもあった。つまり、常に社会や共同体の中で考えられていた問題だということです。アルモドバルの場合、そうした共同体との関わり合いを問題としているのではなくて、おおよそ〈個人対個人〉の問題という形をとっています。だから、あらゆるものが、あくまでも〈個人〉の問題を通じて表現されていると言えるかもしれません。アルモドバルの映画全体が、彼の過去の記憶を、現在において再構築させている面もあります。それ故、個人の印象に基づいた作りになっている。また登場人物たちも同様にして、過去の記憶と折り合いをつけるために現在を生きているところがある。そうした点からしても、アルモドバルの映画は興味深い。
HK その観点からすると「映画作家」として、これから先も特集が組まれていきそうですね。しかし、ファスビンダーがドイツという国を代弁しているように、国家や集団といったものが背景に感じられない気がします。
JD その通りです。しかし、そうした傾向はスペインに限ったことではなくて、世界中の映画作家に関しても言えることです。一部例外があるとしたら、中国やアメリカといった大国においてです。しかし、それらの国で行われていたことも、以前と同じではありません。イデオロギーやプロバガンダを押し出したり、さらには政治映画を通して社会に対する批判を行うことすら難しくなっています。現在では、映画が単なる娯楽の一つになっていて、かつてのような影響力を持つことがなくなってしまっているのです。人々は、娯楽としての映画にしか興味がなくなっている。皆が皆、自分の世界を生きることに精一杯で、他の人々に対する興味を失っています。そして、社会や世界に考えを及ぼすことがなくなってしまった。そうした時代においては、人々が以前と同じ姿勢で映画を見ることができなくなっているのは当然です。それに合わせて、映画の作りも大きく変わりました。
言うなれば、かつての映画は、客観的なものでした。カメラのレンズを通して客観的に世界を撮影し、映写機を通じて客観的に映像を上映する。上映された映像と観客の間には劇場・スクリーンという境界があり、一種の共犯性がありました。「目の前で上演されていることは〈作り物〉であり、その〈作り物〉を通じて、作者が何かを伝えようとしている」。それは物語という形によって代弁された直接的なメッセージでもあるかもしれないし、映像やモンタージュという映画固有の表現によって代弁されたメッセージであるかもしれない。それらを見て自分なりに作品を理解する。理解したメッセージは、作家の言いたいこととは別のことかもしれません(多くの場合、真に優れた映画作品は、映画作家を乗り越えてしまっています)。しかし、何かしらを理解するために、自ら映画の中に飛び込んでいく必要がある。いずれにせよ、そのような態度を持って映画を見なければいけませんでした。
しかし今日の映画は、作りが大きく変わりました。そのことがアルモドバルの映画作りに直接影響を及ぼしているわけではありませんが、間接的には、アドモドバルの映画も現代映画の一部をなしている。要するに、映画の規模が小さくなっているということです。丁寧で小ぎれいな映画を作っているとも言えます。現在の映画作家は、扱う世界が非常に狭くなっている。多くの映画作家は、個人のアイデンティティなどにもとづいた心理描写を行うことが多くなりました。そうした小さな世界は、現在の観客の姿を反映したものでもあります。人々は、自分たちの生きる小さな世界から出ることがなくなっている。仕事、銀行、家族などなど、身の回りのシステムを中心にしてしか生きることができなくなっている。ただ、この世界には、全く異なる生き方をしている人もいます。その人たちは、遠い異国の地にいるのかもしれませんし、身の回りにもたくさんいます。〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)