2025/11/14号 5面

フランソワーズ・サガン

フランソワーズ・サガン ベルトラン・メイエル=スタブレー著 白石 純太郎  比較的恵まれた高校生時代、私は定期試験が終わると一万円札を握り締め、ジュンク堂池袋店に赴き、文庫本を買い漁った。今日は日本文学の日、ドイツ文学の日、イギリス文学の日、アメリカ文学、ロシア文学の日として、ともかく乱読した。その日は、フランス文学の日だった。スタンダール、バルザック、ランボー、ボードレール、カミュ、コレットと買いまくった中に、サガンの『悲しみよ こんにちは』があった。その奔放さと抒情性に胸を打たれた思いがある。今でも覚えているが、池袋の喫茶店で読んだその本は、若い私に憂鬱とは何であるかを教えてくれた。  サガンファンになった高校三年の私は、渋谷のBunkamuraの映画館でディアーヌ・キュリス監督『サガン 悲しみよ こんにちは』という映画が上映されることを知った。放課後、詰襟のまま映画館に向かった。客の年齢層はかなり高く午後を優雅に過ごす人々で満員だった。学生服の私は、明らかに場違いだった。しかしそれが、心地よかった。鼻持ちならず、スノッブだったのだろう。その当時いわゆる「サガン神話」を知らなかった私は、彼女の自由奔放である意味、堕落と快楽を貪るような生活に驚いたものだ。印象的だったのは、彼女が『悲しみよ こんにちは』を初めて自分の作品として手に取る瞬間であった。そのような高揚が、いつか私にもくれば良いなと思ったものだ。  本書は、その人口に膾炙した「サガン神話」を辿りながら、より素顔の彼女に迫った評伝だ。もとより私は作家・批評家の評伝を読むのが好きだ。トーマス・マン、ロベルト・ムージル、ヘルマン・ブロッホ、花田清輝、江藤淳などさまざま読んだ。しかし、本書の印象は鮮烈だった。あたかも自分が、成功した作家のような気分に浸ることができるのである。若くして名声を得て、ボードレール曰く「人口楽園」に溺れ、孤独を、そして痛ましく、救い難い破滅を知った彼女の人生は、まさに彼女自身も愛したトップギアで走るスピードカーのような人生だった。それは、他の誰の評伝よりも新鮮で、切れば血が出るようなエネルギーを持ち、一晩で読み終えることができるほどに魅力的であった。  評伝の始まりは、戦時中のフランスからである。ユダヤ人を匿った工場長の父。そして、戦争の記憶。これは後に彼女の作品に大きな影響を及ぼすことになる。学生時代からの危険なことに惹かれる性向や強情なまでに泣き言を言わない性格は、彼女の小説家としての萌芽を見ることができる。彼女の学生時代、一番魅力的な中毒は読書だったという。フランス文学の古典を読み漁った彼女は、作家としての素地を固めていく。  そして、『悲しみよ こんにちは』である。六〇年代に始まる「性の革命」を先取りしたかのような本書は、たちまち版を重ね、彼女をスターに持ち上げた。少女が男の子のように行動すること。女性解放運動の先鞭を切ると同時に、快楽主義的な若者世代のモデルとなった。  サガンといえば『悲しみよ こんにちは』ばかり語られることが多いが、しかしそれだけではない。『ブラームスはお好き』や、シャンソンの作詞、戯曲も数知れない。ブリジット・バルドーとの対談や、一九七四年の大統領選挙でフランソワ・ミッテランを支持したこともまた、知られねばならない。  本評伝では、そこにももちろん触れられている。栄華・豪遊・放蕩・破産・孤独といった「サガン神話」から一定の距離を置きつつ本評伝では、作家の素顔を丁寧になぞっていく。そこには、小説の題材を私生活に求めることを自ら禁じたストイックさがある。文章によって生きるものとして、それはほとんど当然のことと言っても良い。フランス文学の良き伝統がそこにはある。サガンは、さまざまなスキャンダル、ドラッグ、パーティーに酔いしれながらも、自己における文筆の矜持を守り切ったと言っても良いだろう。この優れた評伝は、『悲しみよ こんにちは』という神話に彩られた彼女の素顔の生涯が描かれた貴重なものである。しかしまた、「サガン神話」に心を惹かれてしまうのも事実である。よってこの本は、素顔のサガンに少しでも興味のある読者のみならず、スキャンダラスな作家の足跡を辿りたいという読者にも推薦することのできる良書に違いない。(遠藤文彦訳)(しらいし・じゅんたろう=文芸評論家)  ★ベルトラン・メイエル=スタブレー=ジャーナリスト・伝記作家。邦訳書に『オードリー・ヘップバーン 秘密の妖精』『ヌレエフ20世紀バレエの神髄 光と影』『バッキンガム宮殿の日常生活』など。一九五五年生。

書籍

書籍名 フランソワーズ・サガン
ISBN13 9784865820515
ISBN10 4865820515