2025/07/25号 2面

孤島論

孤島論 倉石 信乃著 鷹野 隆大  社会が忘れようとしている歴史がある。近・現代史における国家的な負の遺産ともいえるそれらは、年を経るごとに継承が難しくなっている。  倉石氏は写真批評を通して、こうした状況への危機感を折に触れ表明してきた人である。ただ、これまではどちらかといえば控え目で冷静さが目立っていたのに対し、今作はより直接的で激しい口調となっている印象を受ける。それは今作が特定の写真作家論に縛られることのない随想的な論考を多く含むという理由による。だが、おそらく順序は逆で、現状への危機感をより直接的に表明するためにそうした形式を選んだようにわたしには思われる。  さて、本書でいうところの「孤島」とは、必ずしも具体的な島を指すわけではなく、近代国家によって搾取され、棄てられた場所や人々も含む。倉石氏はそうした〝島々〟を訪ねながら、現地で出会った写真やその地を被写体とした写真を前に、消え去ろうとしている歴史を掘り起こしていく。  たとえばハワイで目にした古い観光写真に触れた一章では、 ありふれた写真が潜在的に宿す〝歴史〟を炙り出しながら、ハワイで水稲作が行われていたという意外な過去と、そこに関わる人間の身勝手さを暴く。  このように歴史の傷痕に触れていこうとする本書でとりわけ興味深いのは、他者による表現物である写真を、自分の記憶として捉えようとする倉石氏の姿勢である。  個人の単位を超えた時間である歴史をどうすれば継承できるのか。明示されてはいないものの、これが本書の隠れた主題であるように思われる。この難題を乗り越える方策として考えられるのは、やはり一つ一つの出来事を我が身に置き換えて受けとめることだろう。仮構の物語世界が求められるのはこの時で、その出会いが自己の記憶となり、次世代への継承を可能にする。古来、物語はこのように機能してきた。本書における倉石氏の読み解き方は、写真にも同様の機能を働かせようとするものであるように思える。  それが顕著に表れているのは、北海道の入植問題に関する章で、〈写真を活きた固有性を備えたもの、それでいながら可変的で複数的で偏在性を全うする、別種の「実物」と見なすべきなのである〉と述べているところである。  写真を撮ることを生業とするわたしからすると、写真が「実物」であったなら、どれだけ素晴らしいかと願いつつも、それはやはり事実の一面を写しているに過ぎず、詰まるところある種の虚構であるという現実を突きつけられてきたという思いがある。それだけに、この一文には写真を単なる記号として消費して顧みない現状に対する倉石氏の怒りにも似た強い思いを感じた。  北海道に関する章で取り上げられるのは、〈開拓使の時代に始まる、先住民アイヌの土地と土地に根ざした文化を纂奪して「和人」に(中略)再配分する事業の記録が、写真史の慣例の中では「開拓」や「入植」の概念によって(中略)隠蔽されてきた〉といった、搾取と隠蔽と差別の歴史である。  そして〈アイヌの人々と多年にわたって深い関係を取り結んでいた掛川(地元の写真家)に、かような一文(アイヌ民族と大和民族は完全に同化し得るのであって、現に多くのアイヌ人たち自身がそうなることを願っている)を書かせてしまう「日本人」あるいは「大和民族」の制度的な同化力の強度と、それと均衡する差別の根深さと、ほかならぬ私たちはいまなおいかに抗うべきなのか〉という深刻な問いを投げかける。  当たり前だが、ここで「差別は良くない!」などとスローガンを掲げたところで、何の役にも立たない。大切なのは個別具体的な現実に出会うことである。しかし過去に遡ることはできない。ではどうするか。  一つの選択肢に「物語」があるとして、我々はもう一つの選択肢を持っている。それが写真術を起源とする記録映像である。写真は〝現在〟を未来に送り届ける。未来の人はそれを〝現在〟の痕跡として受け取ることができる。こうして我々は過去を〝現在〟として、つまり〈別種の「実物」〉として出会うことができるようになるのである。これは写真術の誕生以前にはできなかった体験である。  写真という媒体が急速に衰弱し、そこに読み取るべき何ものかを想像することすら難しくなっている今、写真を歴史の継承との関わりで著した本書は、未来を憂える多くの人に示唆を与えるはずである。(たかの・りゅうだい=写真家)  ★くらいし・しの=明治大学教授・詩人・批評家。著書に『反写真論』『スナップショット』『使い』、共編著に『東日本大震災10年 あかし testaments』『明るい窓』『失楽園』など。一九六三年生。

書籍

書籍名 孤島論
ISBN13 9784900997943
ISBN10 4900997943