2025/04/04号 5面

寒さ

寒さ トーマス・ベルンハルト著 水原 涼  峡谷の僻村を舞台にした第一作『凍』にはじまり、坂の下の村からは木々に隠れて見えない城に生まれ育った人物を主人公とする最後の長篇『消去』にいたるまで、ベルンハルトの小説ではたびたび高低差が描かれる。自伝五部作の最終作、最も古い時代を描いた『ある子供』も、語り手が自転車でザルツブルクを目指す場面から書き起こされる。ずっと下り坂の続くその道を、八歳の語り手は気持ち良く駆け下る。しかし冒険は無惨な失敗に終わった。その街はのちに〈死病そのもの〉と断じられるようになる。  本書は自伝五部作の四作目に当たり、作中の時系列ではもっとも遅い、十八歳から十九歳にかけての、結核療養所で送った日々が回想される。前作『息』の末尾、肋膜炎で入院していた施設から退院した語り手は、肺湿潤によってすぐに別の結核療養所への入院を指示された。二千メートルの山の麓近く、谷を見下ろす村の外れの高台に、本書の舞台となる療養所はある。そこでの生活は、ベルンハルトの小説がいつでもそうであるように暗く陰鬱、題の通りの寒風が、病んだ胸を吹きすさぶ。数十の肺が痰を吐き、やがて静かに死んでいく。  語り手は、前巻で祖父を、そして本巻では母親を、家族と呼べるたった二人を立て続けに亡くした。しかし本書は、死と絶望に満ちた療養所を舞台としながら、不思議とただ暗澹としているばかりではない。繰り返される気胸や気腹の処置の場面は、そこで描かれる事態の深刻さに比して、医師の滑稽さが強調されている。新聞の訃報欄で母の死を知った場面ですら、その姓が狒狒を意味する言葉に誤記され、純粋な悲劇としては描かれない。病と絶望と死を繰り返し描く晦渋な文章を、山の陰から差し込む光のようにユーモアが照らす。そうすることで陰影はより強調される。  祖父と母の死により〈すべてを失った〉彼は、しかしそこから回復をはじめる。窓から村を見下ろしながら語り手は、〈毎日療養所の規則を破り、毎日村に行こう〉と思い立った。おもに仰臥していた前半とは打って変わって、彼は活動的になった。自らの決めた規則に従って日々村に降り、歌のレッスンを受ける。福祉手当のほとんどを注ぎ込んで英字新聞を購読しはじめる。そして文学作品に、なかでもドストエフスキー『悪霊』に没頭する。語り手は村でメモ用紙を買い、〈自分にとって重要と思われた事実、存在にとって決定的な事柄〉を書きとめる。メモは数百枚におよんだ。同作のように自らに大きな影響をおよぼしてくれる本を探して療養所の図書館を物色したが、一冊も見つからない。それで語り手は退院を、〈自由の身になって、自分の悪霊を探すこと〉を決意する。  坂の下を目指して挫折した少年は、十年ほど経って再び坂を降りた。訳者の調査によると脚色も多いという本作の記述の通りに、若きベルンハルトが『悪霊』に大量のメモを捧げたかどうかはわからない。ただ、ここに描かれているのはまぎれもなく、一人の青年が、自らの文学的主題を見つけようとしている瞬間だ。  著者の四十代後半から五十代前半にかけて発表された自伝五部作では、しかし、語り手が療養所から退院した十九歳までしか描かれない。幼少期に遡って『ある子供』を書いたあと、ベルンハルトは自伝の執筆を止める(のちに続篇も構想されたようだが、著者の死によって実現しなかった)。それは、著者がトーマス・ベルンハルトという作家の出発までを描くことを企図していたからではないか。(今井敦訳)(みずはら・りょう=作家)  ★トーマス・ベルンハルト(一九三一―一九八九)=二〇世紀オーストリアを代表する作家のひとり。一九六三年に発表した『凍』によってオーストリア国家賞を受賞。以後、『石灰工場』『古典絵画の巨匠たち』『消去』『座長ブルスコン』などの小説・劇作を発表。『原因』『地下』『息』『寒さ』『ある子供』が自伝的五部作とされる。

書籍

書籍名 寒さ
ISBN13 9784879844569
ISBN10 487984456X