2025/08/29号 7面

百人一瞬 Crossover Moments In mylife 76・安藤朋子(小林康夫)

百人一瞬 小林康夫 第76回 安藤朋子 先月、何年ぶりだろう、俳優の安藤朋子さんとお会いした。  安藤さんは、本連載第68回で取り上げさせてもらった写真家の宮本隆司さんの奥さま。わが拙文を好機として、宮本さんの写真集のタイトル通り「本気にすることができない渋谷」で食事をご一緒に!となったのだ。  だが、わたしにとっては、安藤さんは、宮本夫人というだけではなく、なによりも「先生」。舞台の上の極限的身体の動きを教えてくれた「先生」だった。  二〇一五年に東京大学を定年退職した後も三年間、わたしは特任研究員として、新しく始まった教育プログラム「Integrated Human Sciences」に関わった。そのプログラムの身体系ワークショップの講師として、ダンサーの山田せつ子さん(本連載第13回)に続いて、二〇一七年度の一年間、安藤さんに講師として来ていただいた。そして、若い院生たちにまじって、わたしも舞台役者としての身体訓練をやったのだった。  最初が、極度に遅いペースで、「二メートルを五分で歩く」エクササイズ。じつは、安藤さんは、太田省吾さん(本連載第9回)の『水の駅』(一九八一年)で、劇場に観客が入ってくる開演前から、客席内の「橋がかり」から舞台に向かって、「薄い光の中/バスケットを手に」途方もなくゆっくりのペースで歩いてくる少女を演じた人。すべての原点とも言うべきその歩行、それを安藤さんはわれわれに伝授してくれたのだ。  わたしは『水の駅』の舞台を観ていない(DVDに残された映像を観ただけ)。だが、安藤さんのエクササイズの効果は強烈で、その「極度にゆっくりの歩行」はわたしの身体に刻まれてしまった。だからこそ、「オペラ戦後文化論Ⅱ」が八〇年代に差し掛かったとき、わたしは『水の駅』を、とりわけ冒頭、開幕前からすでに舞台に向かってゆっくりと歩く「少女」を、わが「オペラ」の舞台(第三幕)に招かないわけにはいかなかった(拙著『日常非常、迷宮の時代1970-1995』、未來社)。  で、それならば、と原稿執筆中に、安藤さんに「あの少女をどのような存在として演じていらしたのか」と尋ねてみた。するとすぐに返信が来て、「無垢な存在、未知に向かってゆく存在。未知ゆえの恐れ、おののき、不安を抱えながらも、薄い希望に向かって歩き続ける存在」という美しい言葉。  そうだ、その通りに安藤さんはいつまでたっても「少女」なのだ、と渋谷のレストランでともに赤ワインを傾け、劇団ARICAの新作舞台の稽古に明け暮れる近況をうかがいながら、わたしは眼前の「少女」を見つめていた。  「歩行」からはじまった安藤さんの授業の仕上げは「Komaba Square」という一時間ほどのショーイングとなった。院生たちに混じって、わたしもまたパフォーマンスに参加。これが東大駒場でのわたしの文字通り最後の「舞台」となって、わたしの内には惜別の思いが沸き上がり、そしてそこでも遠く未来へとゆっくりと歩行していく「少女」の後ろ姿を「愛惜と希望をこめて凝視した」のだったが、そのわたしの「一瞬」の眼差しを安藤さんは受けとめてくださって、わたしの個人編集雑誌『午前四時のブルー』第Ⅱ号(水声社)に寄稿をお願いしたエッセイのなかで、安藤さんは「上演の最後に、小林先生が退場途中で振り返るシーンがあった。その瞬間の目が忘れられない。彼の胸の内で密かに動くものを感じた」と書いてくださった。  そのわたしの眼差しは、会場にいた宮本隆司さんが見逃すことなく写真に撮ってくれていて、雑誌の最終頁にそれを載せさせていただいた。(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)