戦争特派員は見た
貴志 俊彦著
石本 理彩
本書は、毎日新聞社が所蔵する「毎日戦中写真」と呼ばれる写真コレクションについて、二〇二二年からデジタルアーカイブ化を進めるプロジェクト(東京大学・京都大学・毎日新聞社による産学連携)の中から生まれた一冊である。同コレクションは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、大阪毎日新聞社(以下、大毎)、東京日日新聞社(以下、東日)、毎日新聞社(一九四三年に二社の題号を統一)から派遣された六〇〇人余の戦争特派員が撮影した約六万枚の写真ネガフィルムと六九冊の写真台帳で構成される。
戦時下では、空襲等の戦火から公文書や図書類を守るため、各組織において「文書疎開」が行われた。毎日新聞大阪本社は、一九四四年末に選りすぐりの写真ネガ類をブリキ缶に詰め、奈良県生駒郡(現・奈良市)の王龍寺に移管する「写真疎開」を行った。終戦直前になると、政府は重要機密文書等の廃棄を決定し、終戦直前直後に各地で非常焼却が行われた。報道写真に対しては、軍が各組織に対して焼却指令を発したが、同社は寺に預けていたネガ類を同社地下金庫室に移して秘匿したのである。戦後、GHQは疎開していた文書類の多くを接収し、本国に持ち帰っている。「毎日戦中写真」は、このような戦火による被災と焼却と接収という三度の難を逃れて、現在に残された貴重な記録資料である。
本書は貴重なコレクションの中から計五七枚の写真を掲載し、全六章のなかに、そのエピソードを散りばめた。第一章では盧溝橋事件(日中戦争勃発)以降の特派員を取り巻く状況の変化について、第二章では大毎・東日の会長と社長が自ら戦地を巡り、軍や地元要人との関係強化を図った「皇軍感謝使節」について。第三章では太平洋戦争勃発以前の中国大陸での局地紛争、第四章は太平洋戦争勃発後の太平洋域における戦闘について。第五章は南方での新聞社運営委託事業とフィリピン戦線。第六章では社内外での検閲等により公開されなかった写真とその意味について取り上げられている。
まずは、本書中で従軍記者制度の変容が直接、特派員の取材環境を左右している箇所を紹介したい。「戦地特派員」と「従軍記者」では大きく異なる。満洲事変で従軍記者制度は適用されなかったが、盧溝橋事件以降、つまり日中戦争では軍が現地在任の新聞社特派員を陸軍従軍記者とすることを認め、二重の肩書きが制度化された(三三頁)。これにより、軍の管理下に置かれた従軍記者は厳しい取材規制を受けることとなる。そこには発信する記事や写真の検閲のみならず、戦地における行動規制も含まれていた。この軍による従軍記者への諸規制は日清戦争時に創成され、日露戦争時に確立されるのであるが、日中戦争・太平洋戦争においても記者達は軍の意向に従わざるを得なかった。本書で指摘されている通り、国際世論に影響を与えかねない俘虜の写真は敢えて撮影されず(一九四頁)、戦意喪失に繫がる玉砕の光景は記者を派遣させないことなどにより、写真が残されなかったのである(一九七頁)。本書は、このような従軍記者による報道が、「戦争報道が戦争の実態を描くという神話は、もとより幻想であった」ことを訴える(二〇九頁)。
次に、本書で着目すべきは、新聞社が公開しなかった写真の中に、戦地にいたメディア関係者が記者だけではなかったことを知らしめる写真が掲載されている点である。前線の原稿やフィルム、写真を後方の支局などに届ける役目を担った現地採用の一五歳の連絡員が、野戦病院に運ばれた際の瀕死の写真(四〇頁)が象徴するように、連絡員や電信課員といったこれまで注目されてこなかった職種の人々について、丁寧に取り上げられているのである。これらは、当時の新聞記事に掲載されることのなかった戦地取材体制の真実の記録である。
なお、本稿で取り上げることの出来なかった個々の戦局における戦地取材の様子については、是非、本書をお手にとってご覧いただきたい。
本書は「毎日戦中写真」を通して、報道写真をそのまま受け止めるのではなく、戦争報道がもたらす情報の意味と、それを形作った記者及び新聞社の置かれた状況や思いについて考えるための示唆を与えている。これと同時に、先の大戦時のみならず、現在の我々を取り巻く様々な情報に対しても、その背景や意図を見抜く力を養うべきであることを、我々に投げかけているのではあるまいか。(いしもと・りさ=広島工業大学准教授・日本近現代史・アーカイブズ学)
★きし・としひこ=ノートルダム清心女子大学国際文化学部嘱託教授・京都大学名誉教授・アジア史・東アジア地域研究・メディア・表象文化研究。著書に『イギリス連邦占領軍と岡山』『帝国日本のプロパガンダ』『アジア太平洋戦争と収容所』『日中間海底ケーブルの戦後史』など。一九五九年生。
書籍
書籍名 | 戦争特派員は見た |
ISBN13 | 9784065403808 |
ISBN10 | 4065403804 |