2025/09/05号 8面

「芥川賞について話をしよう」第28弾(小谷野敦・倉本さおり)

小谷野敦×倉本さおり 「芥川賞について話をしよう」第28弾 第一七三回 芥川龍之介賞  第一七三回芥川賞は、該当作なしとなった。候補作はグレゴリー・ケズナジャット「トラジェクトリー」(「文學界」六月号)、駒田隼也「鳥の夢の場合」(「群像」六月号)、向坂くじら「踊れ、愛より痛いほうへ」(「文藝」春季号)、日比野コレコ「たえまない光の足し算」(「文學界」六月号)。今回も小谷野敦氏と倉本さおり氏に、お話しいただいた。     (編集部)  倉本 十四年ぶりの「該当作なし」となりましたね。  小谷野 今回は全体に崩壊していた印象です。そもそも候補作が四つと少なかった。八〇年代は、十から八作の候補があったんですよ。だんだん減ってきて、このところ五作で固定していたけれど、今回は四作。文芸雑誌に新人の小説が載らなくなってきていますが、それにしても候補作はこれしかなかったのか。  樋口六華の「泡の子」はなぜ入らなかったのでしょう。三島賞の候補にもならなかった。三島賞のほうは前回、大田ステファニー歓人の「みどりいせき」が取ったので、続けてすばる文学賞から出すのを避けたのか。芥川賞候補になれば、今回の作品の並びの中で有力だったと思うのですが。  候補作はケズナジャット以外、どれも読みにくかったというのが正直なところです。  倉本 私の予想は「受賞作なし」でしたが、あるとしたらケズナジャットさんかなと思っていました。ただこの作品が受賞に至らなかったのも、わかる気がするんです。こぢんまりとまとまった印象に加え、タイトルが「軌跡」の意味を響かせる装置として働いてしまった感じがあった。  小谷野 砂川文次の「ブラックボックス」が取ったことを思えば、ケズナジャットが受賞してよかったと思います。  西村賢太が死んで「私小説・冬の時代」に入っています。一線で活躍しているのは佐伯一麦ぐらい。ケズナジャットの小説は、私小説的に読めると思っていて、彼が現在の「私小説の星」ではないかと感じているんです。  私はカナダへ二年行っていたことがありますし、大阪大学に勤めていたときに外国人の英語教師との付き合いもあったので、既視感がある。悪い意味でなく、現実味がある小説だと思って読みました。  倉本 複数の選考委員が言及していたとおり、カワムラさんのキャラクターがよかったですよね。主人公のブランドンが知るアメリカと、カワムラさんが思い描く古き憧れのアメリカとのどうしようもないズレは、これまでケズナジャットさんが書いてきた、母語ではない言語と自身の身体性のズレみたいなものから、さらに広がりが生まれていて味わい深くもありました。  カワムラさんは、母語が英語である教師に向かって、自分のほうが英語がわかっていると絡むような、リタイア組のめんどうなおじさんだけど、宿題の英語日記では別人みたいに素直で、抒情的ですらあるようなものを書いてくる。そのギャップも面白く読みました。  小谷野 カワムラさんという人は、実際にアメリカに行ったことはないんですよね。  倉本 そうです。テレビの向こうの、アポロ計画の頃のアメリカのまま、更新されていない。 小谷野 それはちょっと古いかな。『セックス・アンド・ザ・シティ』ぐらいのアメリカにアップデートしていたらよかったのだけど。  ただ、ケズナジャットの作品は好きです。外国人が日本語で書いた小説だからとか、そういうこととは別に、受賞させればよかった。ここまで無理やりに受賞作を出してきたところがあって、今回何かが弾けてしまった、ということなのでしょうね。  小谷野 最近気になるのは、幽霊が出てくる小説が多いこと。幻想文学が悪いわけではないけれど、川端康成の「片腕」や藤枝静男の作品に比べると食い足りない。三島賞を受賞した畠山丑雄の「改元」も、私にはよさがわからなかった。倉本さんは、こういう類の作品は面白いと思いますか。  倉本 駒田さんの作品は好きでした。ただ、群像新人文学賞を同時受賞した綾木朱美さんの「アザミ」も評価が高かったので、駒田さんのほうが候補になったのだな、という別の面での興味深さもありましたけど。  小谷野 死んでいる人間が出てくるのはどうですか。  倉本 そういう世界なんだ、と思ってあまり違和感なく読みました。  小谷野 私は受け入れられないんです。純文学で幽霊を出すのはやめてほしい。  倉本 ある朝、シェアハウスの同居人である「蓮見」に、「初瀬」は「おれ、死んでもうた。やから殺してくれへん?」と言われる。いくら死んでいると言われても、見た感じは生きているとしか思えない相手にナイフを入れるのは、なかなか感情の整理が難しいですよね。それで、躊躇なくナイフを入れるために、宮本武蔵の『五輪書』を自分にインストールする。なんでそんな展開になったのかと面白かったですし、インストールの過程が丁寧に書かれる反面、いざ実行するときには葛藤なく、所作として行うところが、読み味がいいと思いました。  小谷野 宮本武蔵は嫌いです。ただの人殺しでしょう。『五輪書』が出てくるのもリアリティがない。  倉本 確かに、女子中学生が『五輪書』をやりとりしないだろうとは思いました(笑)。  小谷野 この小説は何が言いたいんでしょう。  倉本 何が言いたいのかという部分に相当する、世界には「拍」がある、といったエクスキューズが、私はむしろ苦手でした。理屈で説明しようとしているようで、小説に象徴性を与えることで、自由に書くことの責任を薄めてしまっている感じがします。  小谷野 現実世界との接点がない、空中に浮遊している感じ。SFっぽい作品と思いましたが。  倉本 浮遊しているのかと思いきや、最後に死体がみつかり、殺人の嫌疑で事情聴取を受けますよね。あの辺りのリアルさがアンバランスで、そこがよかったんです。  この作品に通底する現実感のなさは、若い世代が抱えている感覚とリンクしているのではないでしょうか。体臭がしない感じというのか。  小谷野 この作品を推したのは、松浦寿輝でしたか。こういう作品が、新人賞の最終候補になってくることに、私は危機感を覚えます。下読みの人たちの意識にも、関心をもたざるを得ない。一人一人になぜこれを通したのか、聞いて回りたくなる。  倉本 駒田さんの作品はむしろ、一昔前の純文の雰囲気に重なる気がするのですが。  小谷野 それこそ、ちょっと下手な藤枝静男かな。しかし今回の選評は「ぶぶづけ」的ですよね。将来が楽しみだとか、これからも頑張ってくださいとか。  私には群像新人文学賞の受賞も疑問なのですが、つい先日「新潮」前編集長の矢野優のインタビューを読んだら、設計図がしっかりありながら、次の瞬間に崩れ落ちるような小説がいい、というようなことを語っていました。だから前衛的な小説が新人賞を取るのかと思いましたね。  文芸誌が前衛に走って、一般人に理解できないようなものばかり取り上げていると、そのうちに純文学が現代音楽のようになってしまうのではないかと懸念しています。そしてこのまま芥川賞も文芸雑誌も、なくなると思います。  倉本 いやあ……でも危ない、危ないと言われながら、ここまで続いてきていますからね。  小谷野 『週刊朝日』がなくなったあたりで、時代は本当に変わったのだと感じました。今回、両賞該当作なしに本屋が騒いでいるそうですが、それどころじゃないんですよ、と思っています。  小谷野 日比野コレコはデビュー当初の「ビューティフルからビューティフルへ」から、作品がぶっ飛んでいた印象です。さらに今回の作品は、なんだこれは!?と。  倉本 この作品については、意見が真っ二つにわれるだろうと思っていました。私は、岩井俊二の『スワロウテイル』に、トー横キッズの空気観を混ぜ合わせた感じとイメージしました。  小谷野 若者だけの世界で、年長者がいないという感じ? 前世紀の「スワロウテイル」に描かれているということは、昔からあった感覚で、そう新しさはないということですか?  倉本 構造としては、シンプルなファンタジーだと思います。世界観は『コインロッカー・ベイビーズ』なども似た感じでしょうか。  小谷野 「泡の子」もテーマは同じですね。  倉本さん自身は、トー横キッズみたいな体験はないですよね。  倉本 ないですね。  小谷野 私もないんですけど、苦しいですよね、こういうテーマの作品を読むのは。金原ひとみの『TRIP TRAP』に「沼津」という短編がありますが、あのぐらいが私にもほどよく読めるラインです。  倉本 私は、抱擁師としてフリーハグを行う「ハグ」の存在に魅力を感じました。「みんなのひと」になりたいというハグの心理は、今の若い人たちが抱えている孤独のありようと密接に結びついているように思えて。  小谷野 今の若い人と倉本さんは接点があるんですか。  倉本 すみません、直接的な繫りはさほどないですが(笑)。十代、二十代の文化を見ていると伝わってくるものがあります。  小谷野 私にはわからない。老害と言われても仕方ない。  倉本 これは一定の世代から外れたら、テクスト自体がちんぷんかんぷんになる小説なのかもしれませんね。この作品には前提としている世界の空気があって。そこでよく使われるモチーフを、ある程度共有していないと、弾かれてしまうのではないかと。  小谷野 そう考えると、選考委員はあの年齢で頑張っているのかな。  倉本 描写がやや雑というか、冒頭の文章から時計台のある公園の様子がうまく思い浮かべられない。その点で失敗していると、友人が指摘していて、なるほどな、と。確かに、表現に瑕疵はあります。ただハグが担わされる人々の孤独の実相は、コレコさんの書きぶりでないと表現できないものかもしれないと思うんです。  小谷野 あとは読者がつくかどうかですね。私にはわからないから、あとはわかる人たちでやってくれと言うしかない。  倉本 ケズナジャットさんの作品とは対極かもしれませんね。ケズナジャットさんの小説は誰が読んでもわかるし、ある程度シンパシーを寄せられる。でもコレコさんの小説は全く受け付けない人がいる一方で、心酔者も生むようなものなのではないか。  今はSNSで繫がっていても、直接に人と人が会うことは減っていて、一昔前の人と人との付き合いや、知り合うという営みとは決定的に違っています。その茫漠とした不安感を言葉で埋めようとすると、あのような表現になるのかなと。ハグが「みんなのひと」になろうとしているという、その言葉の裏に、現代の多くの人々が抱えている孤独や不安が、現れているように思うんです。  抱擁師のハグのほかに、軟派師のひろめぐが出てきますが、この二人の矜持が真っ向からぶつかりあう感じもよかった。結局、ハグは相手の主張に乗って性交渉を選んでしまうし、最後に《痛くない出口》に二人で身投げするのは、やや陳腐な気がしましたが。  人との繫がりに実感がもてないし、自分の抱えている欠落や孤独のかたちが自分でもわからない。そういうもやもやしたものに、諦めずに言葉を当てていこうという気概は窺えました。  小谷野 一読、宇佐見りんの『くるまの娘』の模倣のように思いました。実家の庭にテントをはって暮らすという。でもテントで暮らすといっても、食事は毎食テイクアウトなのか、風呂や洗濯は家に忍びこんですませるとあるけれど、それで長い期間暮らせるのか。細部が書かれていない。  倉本 トイレは家のを使っていたけど、コンビニへ行くようになった、とかありましたね。結局、どうしようもなく実家にパラサイトしてしまっている感じを、描きたかったのではないかと。  小谷野 『理由なき反抗』みたいな感じ?  倉本 どうしてもいやなら普通は家を出るけれど、この主人公は自宅の庭でテント暮らしをしているというのは、母親の鎖を断ち切れないのだと思いますね。  小谷野 甘ったれた感じね。  倉本 小谷野さんは前の候補作になった「いなくなくならなくならないで」のほうが読みやすかったのではないですか。  小谷野 まだ理解できた。幽霊が出てくるのはいただけなかったけれど。  倉本 私は、ディテールは今回のほうが好きでした。ただ完成度は「いなくなくならなくならないで」のほうが高かったと思います。  私が今回の作品で好きだったのは、たとえばはじめのほうに出てくる親戚が集まる場面です。アンノはいとこから、「おなかに赤ちゃん来たけど、帰ってもらったんでしょ?」と聞かされて、それが母親への反発に繫がっていきます。その親戚たちの集まる場で子どもたちは「バレエがんばります」とか、「野球がんばります」とか、その年の目標を言わされるんです。子どもに皆の前で目標を宣言させて呪縛する、そういう一族だということがよくわかる。  小谷野 現実には少子化なのに、親戚が集まる場にたくさん子どもが出てくる場面を書くというのは、どうですか。  倉本 つまりあの一族はアッパーミドルクラス以上なんだろうと考えることもできる。バレエを習わせているということから見てもそうですし。お金がかかるから子どもは一人しかもたないと決めたとはいえカツカツの生活をしているわけではなさそうです。実際、母親は、アンノのためにありとあらゆる習いごとで家庭教師を雇っている。  小谷野 設定が時代からズレているのが気になります。  倉本 私が気になったのは、「割れる」という言葉の使い方です。「怒る」とも「泣く」とも違う感覚に、「割れる」と名前をつけるのですが、後半でこの表現が揺れてしまい、読み味を損なったと思うんです。  逆によかったのは、彼の祖母の「あーちゃん」が、「傲慢といいますそういうことを」と倒置法で話すんです。これは自分の意見を相手に押し付ける語法ですよね。あーちゃんは自我を押し通すわがままさをもつ人ですが、それに対して母親は、「あなたのため思って」という決まり文句で、罪悪感をこすりつけて、アンノをコントロールしようとします。幼いアンノは、「お母さんだからって、ほんとのことがなんでわかるの」と言います。自分の思考や言葉が、母親に帰属している感じが、嫌で嫌でしょうがないんですね。そんなアンノには、自分の責任で意見を押し通すあーちゃんの人格が居心地が良かったのでしょう。  アンノと、あーちゃんの息子と、元彼である孫が鉢合わせするシーンがあるのですが、口を挟もうとするアンノが「席を外してもらえますか。これは家族の話なので」と言われるシーンも好きでした。家族というコミュニティに異物が入ってきたときのギョッとする緊張感。そういう微妙な親子関係や、人と人とのコミュニケーションに生じるひずみを書くのが上手い。向坂さんは言葉の磁場を扱うのに長けていると思います。言葉というものが、ある種の権力に基づいて発されているということを読者は意識させられるんです。  小谷野 母娘対立ものが、長いこと流行していますよね。九段理江の「Schoolgirl」とか、鈴木涼美の「ギフテッド」とか。  倉本 対立というより共依存ですが、宇佐見りんさんの「かか」もそうですね。  小谷野 その発端は宮本百合子の『伸子』で、先日、ちくま文庫から復刊されました。ただそろそろ、母娘対立ものは飽和状態の感じもある。今後は、娘のマザコンもの小説を書くといいのではないかと思っています。  倉本 これも裏返せば、そういう作品ではないですか。反発しながらも家を飛び出せず、母親の「あなたのため思って」という言葉に囚われているのはその証左ですよね。  久々に母親の姿を見たら薄くなっていた、という描写は、時間の経過が表れていてよかったですし、バレエの発表会で、舞台に出てから踊るのを止める、という大人たちへの「しかえし」を計画する場面、その二分すこしの間に子どもたちが手を握りあって懸命に止まっている描写もよかったです。  小谷野 私は、次回があるのか、というぐらいの危機感を抱いています。  倉本 小学館の新文芸誌『GOAT』は大変好調なようですね。  小谷野 本当ですか?なぜだろう。  倉本 純文学の作家だけでなく、芸人やアイドル、俳優、声優、マンガ家などまでフォローしているからでしょうか。  小谷野 小説は誰にでも書けるものになりましたね。  倉本 AIの小説も現実味を帯びてきたし。  小谷野 でもあれは面白かった。大九明子監督が映画化した「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」。作者は芸人でしょう。  倉本 小説を読む人より、書き手の方が増えているのかもしれませんね。ただ書き手人口がいる限りは文芸誌はなくならないのではないかと。  小谷野 それはどうでしょうか。次回もこの対談が行なわれるといいですね。(おわり)  ★こやの・あつし=作家・比較文学者。著書に『聖母のいない国』(サントリー学芸賞受賞)『とちおとめのババロア』『この名作がわからない』(共著)『蛍日和』『あっちゃん』『謎解き『八犬伝』』『文化大革命を起こしてはならない』など。一九六二年生。  ★くらもと・さおり=書評家・ライター。一九七九年生。