ユダヤ人の歴史
鶴見 太郎著
黒川 知文
著者は、大学時代にはアラブ世界から次第にユダヤ史に惹きつけられ、大学院においてジンメル社会学を学ぶ。東京大学、ヘブライ大学とニューヨーク大学でも研究を続け、本書に至った。
本書は、第一に、「巡り合わせと組み合わせが詰まった」社会学の視点からユダヤ人の歴史を理解する。「ユダヤ人が構造と格闘したり、構造を前提にしてそれを活かす道を考えたり、複数の構造を組み合わせて第三のものを作り出した」と論じ、「主体と構造」織りなす局面という視座から述べられている。例えば、反ユダヤ主義に関しては、従来のキリスト教とユダヤ人の対峙構造ではなく、「ユダヤ人を金づるとして利用する権力者と、それを腐敗と捉える庶民のあいだにユダヤ人が峡まれるという」三者関係がその基底にあると指摘する。またスペインにおける宗教的ユダヤ人とキリスト教に改宗したマラノとの「ユダヤ・アイデンティティの二重性(血縁意識か宗教意識か)が指摘され、それとキリスト教徒とイスラーム教徒との関係構造。さらに近代東欧においては「ユダヤ人のパトロンだった貴族が没落し、社会の構造が大きく変わっていた」としてポグロムに代表されるユダヤ人迫害を論じる。ユダヤ人は確かにマイノリティであるために構造に規定される部分は大きい。近世東欧においても、ポーランド貴族と農民と「都市と農村をつなぐ仲介人」としてのユダヤ人の三者関係構造が指摘されている。妥当な分析である。
本書は第二に、新しい資料に基づいて従来の説を否定している。イスラーム世界のユダヤ人は、公式的にはムスリムを支配する地位に就けなかったとされていたが、資料カイロ・ゲニザの発見により「実際にはさまざまなレベルの役人がいたこと」を明らかにしている。また、西欧中世においては「ユダヤ人などの中間集団が個別に国家と結びついて保たれる秩序が、同時代のイスラーム世界を含めた中世一般の大きな特徴だ」と指摘する。さらに、ユダヤ人は土地所有が禁止されていたために中世において商人にならざるを得なかったとする従来の説を「最も広範な俗説」だと評して、「ユダヤ人の土地所有が一部で禁止されるようになるのは近世に入ってから」であり、ラビ・ユダヤ教が確立した10世紀においてメソポタミアとペルシャのほとんどのユダヤ人はすでに農業を離れていたと指摘する。「中世までラビこそが大商人であった」と述べている。これに関してはさらなる立証が必要である。
第三に、従来のユダヤ史が西欧中心であったが、9割のユダヤ人が在住していた中世イスラーム世界のユダヤ人について多く叙述されている。また、目次や巻末の年表が示すように、著者独自の時代区分になっている。さらに、ゼレンスキーやネタニヤフにまで至る、各時代における重要な政治家や思想家について、その生涯を詳述してその思想を提示している。
以上の3点から、本書は「新しくて包括的なユダヤ史」と評価することが出来る。
「捉え方の問題や別の解釈…読者諸氏のご指摘を賜ることができれば幸いである」とあるので、以下の四点を指摘する。
第一に、宗教は普遍的現象であるので社会構造だけでは把握できない。ユダヤ教の神観と比較して、スピノザとベシュトは、汎神論と万有在神論であることが指摘されていない。古代ではユダヤ教の「啓示性」、近世では多発したユダヤ教メシア運動、近代ではポグロムの宗教性の言及もない。本書は「世俗的なイスラエル人の歴史」の感がある。
第二に、社会の上層部である政治家や思想家の紹介はされているが、底辺ユダヤ民衆の意識がわからない。社会史的分析が求められる。
第三に、特定の研究者の意見が無批判的に引用されていて、どこまでが著者の意見なのかわからない。また研究者に偏りがあり、より広範な研究者の意見を紹介するべきである。
最後に、原史料では1881年ポグロム犠牲者は「40名以上」をはるかに超えている。
より包括的な研究を期待する。(くろかわ・ともぶみ=愛知教育大学名誉教授・宗教学)
★つるみ・たろう=東京大学大学院准教授・歴史社会学・ユダヤ・イスラエル・パレスチナ研究。著書に『ロシア・シオニズムの想像力』『イスラエルの起源』、共著に『シオニズムの解剖』など。
書籍
書籍名 | ユダヤ人の歴史 |