2025/09/12号 5面

帰れない探偵

帰れない探偵 柴崎 友香著 倉数 茂  柴崎友香は、一貫してこことあそこという二つの場所の関係にこだわってきた。こことはいまの〈わたし〉が存在している場所であり、あそことは〈わたし〉が現在不在の場所である。だからこことあそこは、現在と過去、現実と虚構、見えているものと見えていないもの、リアリティとメディアなどの対に拡張することができる。柴崎は、こことあそこという非対称の場所を、シャッフルしモンタージュすることで作品を紡ぐ。  本作の七つの章は、ひとつをのぞいて「今から十年くらいあとの話」という一文から始まる。柴崎の愛読者なら、これだけでいまと未来とがくるりと裏返されるのを感じて、ああ、鮮やかに柴崎ワールドが始まったと嬉しくなるはずだ……。  語り手の「わたし」は「世界探偵委員会連盟」に属する探偵として、依頼者の思い出の場所を探したり、人に話を聞いたりすることをなりわいとしている。例えば亡くなった祖父の蔵書を古本屋から取り戻してほしい、祖先の人生がどのようなものだったか知りたい、など。  語り手が「帰れない探偵」なのにはふたつわけがある。最初の章で語り手は、自宅兼用の事務所につづく路地がなぜだか見つけられなくなってしまう。道に迷ったわけではない。何度確かめても明らかにあったはずの道が消えている。まるで過去が、街の風景そのものが、知らないうちにそっと書き換えられているようだ。さらにもうひとつ、母国で十年前に体制転換が起きて、語り手のパスポートが使えなくなってしまった。どうやらかなり抑圧的な体制であるらしく、もし国に帰れば、そのまま出国できないなどの制限を受ける恐れがある。それゆえ探偵は帰郷することなく、転々と国を変え、街を変え、仕事の内容を変えて探偵稼業をつづけている。いわば人生がまるごと果てしないトランジットになったようなもの。  急な坂の多い街、雨が降り続くのに人が傘をささない街、白夜の季節の北の離島、中東の産油国を思わせる砂と太陽の街。イタロ・カルヴィーノの『マルコ・ポーロの見えない都市』──カルヴィーノほど幻想性は強くないけれど──を思わせるエキゾチックな舞台が章ごとに登場する。どのような場所にもそこで暮らす人がおり、個別の思い出を抱えている。探偵はそうした人々に会って話を聞き、図書館で過去の地図や記録を調査する。危険人物に襲われたり、身近でスパイが暗躍したりといった活劇だってちゃんとある。  通常の探偵小説では探偵はじりじりと真相ににじりより、鮮やかに謎を解決することで結末をもたらす。だけど本書の語り手はちがう。謎ともいえない違和感を抱えたまま、人々の記憶を、過去の断片をさまよっていく。決定的な真相にも解決にも辿りつかない遍歴は、徒然にいろいろなことを連想したり思い出したりするのに似ている。この作品を読みながら読者が体験するのは、世界がだんだんあったこと、なかったこと、あったかもしれないことの重ね書きに変わっていくプロセスだ。  後半になると、この重ね書きの世界は意外なほどリアルな現代社会と似通っていることに気がつかされる。ネットを通過した情報はどこまで信頼できるのだろうか。物質的な地図やドキュメントであれば大丈夫といえるのか。統計や行政記録が改竄されている可能性はないか。謎めいた巨大情報企業が、あらゆるデータを取り込み、自分たちに都合よく操作している気配もある。探偵は図書館で地図を確かめるたびに、それが改変されている可能性を感じとってしまう。いつのまにか事務所へ向かう道が消去されてしまったように、我々の生きている日常も力のある誰かの手で改変されているのかもしれない。  そうした不安を抱えつつ、物語は決して暗くない。なぜなら確かなものが何もなくても、記憶を手放さずにいることはできるからだ。記憶には誰かとのつながりが封じられており、例えば懐かしい歌が響きわたるとき、「帰る場所」がもうなくても、新たな懐かしい場所に飛び立つことはできるのだ。(くらかず・しげる=小説家)  ★しばさき・ともか=作家。「春の庭」で芥川賞受賞。著書に『その街の今は』(芸術選奨文部科学大臣新人賞、織田作之助賞大賞、咲くやこの花賞)『寝ても覚めても』(野間文芸新人賞)『続きと始まり』(芸術選奨文部科学大臣賞、谷崎潤一郎賞)など。一九七三年生。

書籍

書籍名 帰れない探偵
ISBN13 9784065397107
ISBN10 4065397103